吹く風が冷たく、肌を少し震わせる程の季節になってきた今日この頃。
 それでも昼間は薄着でも平気なので、私はまだ長袖のカッターシャツを身に纏っている。
 通りをすれ違う人間たちも、袖の短い者がちらほらといる。
 背負う薬箱の中身は大体売りきったので、行く時よりも大分軽くなって楽になった。
 薬の販売量も良かったし、今日は師匠に誉められるに違いない。良かった良かった。
 私は今、人間の里の中央通りを歩いている。
 商店や露店が多く立ち並ぶ商店街から、さらに奥に進んだこの場所は、ほぼ人間の里の中央部にある。
 ここまで来ると妖怪の姿は周りには見られず、同じ里でも別の場所のように感じられる。
 そんな場所に妖怪の私が歩いているのだから、人間たちの視線が私に集中するのは当たり前。
 もう慣れているから良いけど、やっぱり気になる。
 私にはそんな気がないのだけど、人間にとっては妖怪は恐れられる存在である。私に襲われる心配があるのだろう。
 ひそひそ、ひそひそ、と私に聞こえないように、何かを喋っている。
 私を不気味がっている。
 ひそひそ、ひそひそ。
 風の音も、誰かの喋っている声のように聞こえる。
 ひそひそ、ひそひそ。
 やっぱり苦手だな、ここ。
 早く用事を終わらせて帰ろう。
 そうしよう。
 私の今日の仕事は薬の販売。
 民家を訪ねて薬を売っていく方式。
 販売方法は別に良いのだが、ここに来る度に憂鬱な気分になる。
 仕事だし、師匠の命令だから仕方がない。
 けどやっぱり、慣れない。
 周囲の人間の視線が、風に揺られる私の長い二本の耳に集中する。
 妖怪兎である私は、何よりも耳が特徴的で仕方がない。
 はぁ、とため息が自然と出る。
 軽いはずの薬箱も、先ほどよりもなぜか重くなったような気分だ。
 帰りたい。
 仕事がなかったら帰りたい。
 いや、逃げたい。
 はぁ、と再びため息。
 気分が重くなる。
 こういうのが得意じゃないって知っているのに、なんで師匠は私に頼むのだろうか。
 てゐのほうが人付き合いも上手いから、てゐに頼んだほうが売り上げアップにもなるのに。
 なんで私なんだろう。
 私じゃなきゃダメなんだろう。
 なんでだろう。
 私の進行方向には誰もいない、あまり関わりたくないから皆、道の横にずれる。
 と言ってもそれは私の勝手な思い込みや想像である。
 そこまで嫌悪にされているわけではないが、そう思えてくるから仕方ない。
 医者だけど、やっぱり妖怪は好きになれないのだろう。
 里の者は私よりも師匠に好意を持っている。
 見た目が人間と変わらなく美人な師匠と、明からに見た目が妖怪で綺麗じゃない私では雲泥の差である。
 私は師匠のおまけとして、ある程度は里の者に受け入れられているのだろう。
 微妙な気分である。
 なんで私はこの仕事をやっているんだろう。
 その理由を判っていた気がするけど、結構昔のことだから思い出せない。
 なんかごく在り来たりな思いだった気もするけど、なんだったか。
 なんだったっけ。
 うーん、なんだったっけ。
 思い出せない。
 喉に引っかかった魚の小骨のように、妙な違和感を残す。
 取れそうで取れない。痛いような痒いようなそんな感覚。
 なんだったっけ。
 なんだったっけ。
 うーん。
「鈴仙」
 必死に記憶を掘り返していた私の耳に、透き通った綺麗な声が響く。
 ハッと気づいて頭を上げると、皆避けていく私の進行方向に一人の女性が立っている。
 肩まで伸びた輝くような金髪を靡かせ、人形のような繊細さを持つ顔立ちに、宝石ような青色の瞳。
 青を基調にした洋服に、多くのリボンやフリルを纏って子供っぽく見えるが、なぜか少し大人びた雰囲気を持っている彼女には、やけにお似合いだった。
 頭に着ける赤いカチューシャが、似合っている女性。
「アリス?」
 魔法の森に住む魔法使いである、アリス・マーガトロイドは私を見て嬉しそうに笑っている。
 私とはどう見ても住む世界が違う雰囲気を持ち、知り合うきっかけなど皆無にも思えるそんな彼女。
 だけど私たちは友達である。
 昔あった、朝が訪れない永夜異変の時に、私は彼女と初めて出会った。
 その時はなんとも思わなかったけど、今では大切な友達である。
「アリスがここら辺にいるなんて、珍しいね」
 今は私がいるのは、先ほども言ったはずだけど、商店や露店が立ち並ぶ商店街から奥に行った中央通りである。
 ここを先に進んでも人間たちが生活している居住区ぐらいしかなく、買い物はできない。
 ならばなんだろうか。
 アリスが散歩でこんなところに来るわけもないし。
 きっと理由があるはずだ。
 すると、アリスは手に持っている薄紅色の手提げ鞄を私に見せるように持ちあげる。
「私はちょっとした頼みごとよ」
「人形関係?」
「そうよ」
 なるほど、それなら納得。
 アリスは人形を操る人形遣いとしても幻想郷で有名な存在である。
 他にそのような者が少ないのも原因だが。
 さらに人間の里では、人形劇を無料で行なったりと色々人間と良い関係を気づいている。
 何より見た目が綺麗だし、私と違って人間に近い容姿を持っている。
 魔法使いはどっちかというと妖怪の部類に入るが、先ほどの理由から人間受けが良いのだ。
 私にはない物をたくさん持っている。羨ましい。
「鈴仙は薬のお仕事?」
「え、うん、そう――――」
 ひそひそ。
 ひそひそ。
 するとまた周囲から何かを語るように音が聞こえる。
 周りを見ると、人間たちが私を見ているように感じる。
 ひそひそ。
 ひそひそ。
 いや、私よりもアリスの噂をしている気がする。
 ダメ……。
 私と一緒に話しているから。
 妖怪の私と話しているから、アリスが変な目で見られているかも。
 アリスは人間たちに好感を持たれてるから、私なんかのために好感を下げてはいけない。
「あの……アリス……」
「ん? どうしたの?」
 周囲の視線に気づいていないのか、アリスは首を傾げる。
「こんなところで、私と喋っていると、あまり良いことないよ……周りの人間、私のこと良く思ってないと思うし…………」
 どうせ後で話せるし、ここで話さなくっても良い。
 私なんか、いつでも話せるし。
 チクリ、と胸が痛んだ。
 こんなことを言わないといけない自分が苦しかった。
 私と、アリスは違うのだから。
 その言葉を思う度に、胸が痛む。
 だけどアリスは周囲を見回すと、眉を八の字にして大きくため息を吐いた。
「……何を言っているの、周りがどう思っていようが関係ないじゃない。私と鈴仙は友達なのだから、会話して当たり前じゃない」
 ちょっと怒り気味に、アリスは言った。
 なんの躊躇もなくそう言ってくれるアリスに、私の心は震える。
 涙さえ出そうになった。

 友達。

 私とアリスの関係を結ぶ単語。
 とても短い単語だけど、私にとっては鋼鉄のように硬い単語。
 大事な、大事な単語。
 だけど自分で言うのは抵抗する部分もある。
 アリスが私を友達と認めているか、自信が持てないから。
 アリスは私を、ただの一羽の妖怪兎としか見ていないと思ったから。
 そんな不安が、踊るように私の中を動き心にヒビを入れる。
 しかし、こうやってアリスに直接言われると、そんな不安も消えてしまい喜びが満ち溢れる。
 アリスは私を友達と思ってくれている。
 嬉しい。
 私って単純なのかな。
 でも、単純で良いかも。
 喜べるんだから、単純も悪くない。
 うん、良いかも。
「だから、そんなこともう言っちゃダメよ!」
「う、うん。ごめん」
「なんで謝るのよ。鈴仙はなんにも悪くないのだから」
「……うん」
 力強く言ってくれるアリス。
 いつの間にか、周囲の声も聞こえなくなった。
 今までは私の不安が作っていた幻聴なのだろうか。
 とにかく今はとても静かだ。
 落ち着く、静寂。
 音があるようで、ないような静かな世界。
 先ほどまでの世界とは、まったくの別世界。
 アリスのお蔭だね。
 アリスは凄いな。
 不気味な世界で迷っていた私を、落ち着く世界に連れていってくれた。
 アリス、ありがとう。
 気恥ずかしくって口に出せなくてごめんね。
 こんな短い言葉しか思いつかなくってごめんね。
 ありがとう。
 ありがとう、アリス。
「ねぇ、鈴仙」
「あり……うん?」
 危ない。
 危うく口に出るところだったが、寸前のところで言葉を飲み込む。
 アリスは特に気にしている表情ではなかったのでとりあえず良かった。
「もし、今暇だったら少し買い物でもしない?」
 そう言いながら、アリスは微笑む。
 アリスからのお誘いである。
 私はアリスとあまり一緒に出かけたことがない。
 いつも私がアリスの家に行って、お喋りとかしている内に一日が終わってしまうから、出かける目的があまりない。
 だってそれだけでも十二分に面白いのに。
 しかし、外に出かけたら出かけたで面白いことはたくさんある。
 だから、アリスと一緒に出かけれる時には一緒に出かけたい。
 出かけたいけど……。
「……ごめん、まだ仕事があるんだ」
 私は今、師匠に言い渡された仕事が残っている。
 もし放り出したりしたのならば、後でどんな目に遭うか。
 あぁ、放り出したい。
 だけど後が怖い。
 せっかくアリスが誘ってくれたのに、気を悪くしたかもしれない。
 あぁ、アリスと買い物行きたい。
 こんな時だけど、師匠が憎い。
 師匠め…………。
 そんな衝動との葛藤、及び師匠に対して理不尽な恨みを抱いていると、アリスは残念がる様子もなく言葉を告げる。
「それって、まだ時間かかるの?」
「え、いや、あと一件だけだけど……」
「じゃあ、終わるまで待っているわ」
「え?」
 今なんと?
 待つ、と言ったのかな?
「一件って言ってもどれくらいかかるか判らないし、それにあと少しで夕刻だよ。アリスに悪いよ」
「早く終わるかもしれないわよね、待つぐらい良いわよ」
「でも……」
「大丈夫、鈴仙が来ないようなら帰るから」
 それはそれで悪い気もする。
 これから行く場所はそこまで遠くはないが、何かしらのトラブルがあったら時間がかかる可能性もある。
 陽が暮れる可能性もあるのだから、待ってもらうのは忍びない。
 何よりそんなことになったら、私が気が気じゃない。
 だけどアリスはその意志を変える気配を持っておらず、こうなってしまっては何を言っても無駄だろう。
 それに私はアリスに強く言われると、それ以上言い返せない性格も持っている。
 自分の意志をしっかり表せ、と師匠に言われているのだが、やっぱりそれは難しい。
 自分の性格が悔しい。
「じゃ、ここら辺で待っているから、早めに済ませてね」
「……時間かかるから、来ない様子だったら早く家に帰ってね」
「ええ、判ったわ」
 本当に判っているだろうか怪しい応答である。
 でもまぁ、早く終わらせれば良いか。
 それに今私たちがいる周辺には茶屋があるし、少しの時間を潰すなら問題ないだろう。
「じゃ、気をつけてね」
「うん、なるべく早く終わらすつもりだけど、あまり期待しないでね」
「ええ、期待しないで待っているわ」
 にこにこ笑顔で、胸の前で手を小さく振って私を見送るアリス。
 そんな顔をされるとなんか恥ずかしくなってしまう。
 なんでそんな綺麗に笑えるのかな。
 私にはできない笑顔だな。
 アリスは綺麗で、可愛いな。
 こんなことばかり思いつくから、アリスを見ていることはできない。
 きっと朱色に染まっている私の頬を見られないように、私は駆け足で目的の家へと向かう。
 少し歩いてから、チラッと後ろに振り向いてみると、アリスが茶屋の縁台に座って、店員の女性に何かを頼んでいる。
 早く終わらせないとな。
 そう意気込み、私は駆け足をさらに早める。

     ☆

「ごめんください、薬の補充にやってまいりましたー」
 アリスと別れてからほんの少し。
 私はとある家にやってきた。
 そこは長屋の極一般的な家である。
 師匠の作る薬は効き目抜群の最高の品質を持っている。
 しかも、そこまで高い料金を請求するわけでもなく、明らかに格安の料金で提供しているのだ。
 だから師匠の薬を求める人間は少なくない。
 だが毎日毎日売りに行っていたら半端じゃない量を求められる。私も毎日人間の里に行って憂鬱な気分になってしまう。というかノイローゼになってしまう。
 なので師匠は、大体を置き薬方式で薬を販売している。
 契約した特定の家を訪ねて、抱えれるくらいの箱に薬を詰めて渡す。
 しばらく月日を置いて薬が減ったと思われるタイミングで、その家を訪ねて減った分の薬を補充する販売方法。
 もちろん料金は請求した分だけである。
 これで人間側としては、いちいち薬を購入する手間も省ける楽な方法である。
 人間の里にいる人間の医者も、この方法の便利さに気づいてまねをしている。
 しかし、師匠と人間の医者じゃ薬の性能も違うと思われるが、実は師匠が人間の医者に薬の作り方を教えているため、薬はほぼ同等の効果である。
 師匠としては自分の知識で、他の者が助かれば良いという考えを持っており、教えれる範囲であれば協力は惜しんでいない。
 そこが師匠の良いところである。
 私は自分のことで手いっぱいなのだから、他人のことには気が回らない。
 そして私は本日最後となる置き薬がある家へとやってきた。
「お、そうか、今日だったな」
 私の声に気づいて家の奥から女性が姿を現す。
 青色を基調とした服に、変な形をした帽子を被り、誠実そな大人びた顔つきの女性。
 人間の里で寺子屋を開く女性、上白沢慧音の自宅である。
 私は、この女性と面識がある。
 お客様、としてではなく、それ以外でも良く姿を見るから。
 私が住む迷いの竹林にある屋敷、永遠亭の主でもあり、月のお姫様である蓬莱山輝夜様。通称、姫様。
 その姫様に、過去で何かしらのことをやられ、深い怨みを持つようになった不老不死の人間、藤原妹紅という者が最近では日課であるように姫様を殺そうと襲いかかってくる。
 しかし、姫様も不老不死であるために、二人の決着は永遠につくことはなく、既に日課ではなく遊び感覚になってきたようにも感じられる二人の関係。
 その妹紅にいつも付き添っている、姫様で言う師匠のようなポジションにいるのがこの人間、上白沢慧音である。
 姫様と妹紅が遊んでいる時には、いっつも師匠と一緒にその光景を眺めている。
 そして遊びが終了すると同時に、妹紅の手当をする。
 私の第一印象としてはお節介な命知らず。
 だって最初は二人の遊びを、体を張って止めようとしたのだから。
 よくできると呆れてしまう。
 不老不死ではなく、少し強い程度の人間である慧音が二人の間に入ったのだから。
 一歩間違えれば死んでいたのに。
 度胸があって、自分の意志をどんな相手でもしっかり述べられる人間。
 敵ながら羨ましい性格である。
 いや、最近敵という言葉も怪しい。
 なんだかんだで永遠亭で宴会する時も、なぜか妹紅と一緒に参加してくることが多くなった。
 本当にこれでは敵というより、遊び仲間と言ったほうが良いだろう。
 まぁ今日はお客様として対応するだけである。
「はい、いつもありがと……」
「ちょうど良かった、ちょっとついてきてくれ」
 私が言葉を言いきる前に、慧音が靴を履いて私の腕を引っ張って家の外に出る。
 ほっそりした体つきの癖に、妙に力がある慧音に私の抵抗もあまり意味がないようだ。
 というかいきなりのことだから抵抗する暇もない。
 いきなり、何!? どうしたのよ!?
 同様する頭だが、口がやっと動いた。
「な、なんなのよ!?」
 当たり障りのない、至極当然な疑問であり、そして文句でもある言葉。
 突然私を連れてどこに行こうって言うの!
 …………ま、まさか、妖怪である私を捕まえて、人間たちが退治と称して、へ、変なことをするんじゃ。
 縄で縛り上げたり。
 鞭で叩かれたり。
 体をいじられたり。
 あぁ! きっと私が狂うまで続けられるんだ!
 いやだっ! そんなのいやだっ!
 そんなことにならないように、幻想郷で生活していたのに!
 そういうことが嫌だったから月から地上に下りてきたのに!
 それは関係ないか……とにかく!
「……い、いやだ! 止めて!」
「何を言っているのだ?」
 頭の中で繰り返される未来予想に、私の悲鳴が口に出たが、その言葉を聞いて慧音が首を傾げる。
「わ……私を捕まえて、ひ、酷いことする気ね」
「……何をバカなことを言っているのだ」
「え、違うの……?」
「そんなことするわけないだろ。お前は里に危害を加えること一切していないだろうに」
 危害を加えていたら何かしていたのだろうか、ということは聞かないでおこう。
 とにかく慧音は苦笑しながらそう答えた。
 よくよく考えれば当たり前である。
 慧音は芯が通ったまともな人間である。
 その人間が先ほどまで考えていたことなんてしないだろう。
 なんで私はあんなこと考えたのだろうか。
 うーん、色々溜まっているのかな。
 ストレスとかは発散しているはずなんだけど……。
 最近、薬の勉強とかであまり出かけれなかったし、兎たちの自由奔放ぶりにも疲れるから、発散するよりも溜まっていくほうが多いのだろう。
 でも、それは今までやっちたことが同じだし、そこまでストレスが溜まるとは思えない。
 何か他の原因があるのだろうけど、なんだろうなぁ。
 思いつかないぞ。
 思いつかないほどくだらないことなのか、それとも思いつかないほど日常的なことなのだろうか。
 思いつかないぞ。
「実はな」
 ストレスの原因に首を傾げると、慧音が私に気づいていない様子で語り始めた。
「すぐ近くの子が熱を出してな。医者のところに行こうと思っていた矢先にお前が来てな、ちょうど良かった」
「医者って、私は薬師でまだ見習いなのだけど」
「お前はいつまで見習いをやっているつもりだ。軽い風邪だと思うがとにかく診断してくれ」
「人の話を聞きなさいよ! それに私だって好きで見習いをやっている、うわわわ」
 反論しようとしたが、聞く耳持たないという感じで慧音は私を引っ張っていく。
 私の意見も聞きなさいよ! と怒鳴ろうかと思ったが、この石頭には何を言っても無駄な気がする。
 気がするだけで、確実とは言えないが、言うタイミングを見失ってしまった。
 はぁ、もっと意見をはっきり言える性格になりたい。
 しかし、面倒なことに巻き込まれてしまった。
 慧音は私のことを医者と思っているようだがそれは間違いである。
 私は医者の弟子ではなく、薬師の弟子である。
 薬を作ることは可能だが、医者のように診断したり、手術を行ったりする技術はない。
 だけど師匠は薬を作れて、医者のように振る舞える天才である。
 私は薬の作り方しか師匠からは習っておらず、医者の振る舞い方などはほぼ皆無に近い。
 と言っても何十年も師匠の診断とかを見ているので、それ相応のことならできるが、少し自信がない。
 大丈夫かな、私。
 私と慧音は少し傾いてきた人間の里を駆け足で進む。

     ☆

 私が慧音に連れられてやってきたのは、相変わらず変わり映えのない長屋の中の一つ。
 基本、人間の里には長屋が多いため、どこもかしこも同じ風景に見える。
 私、今失礼なことを言っているかも。
 そういうことはあまり考えておかないでおこう。
 とにかく私がやってきたのはそんな家。
 家の中には人間が三人。
 父親と母親、そして布団で苦しそうに顔を紅潮させている娘の三人。
 この人間の娘が患者だろう。
 そうじゃなきゃ誰なのよ。と一人でツッコミを入れてみる。
 ケホケホと咳をする娘だが、そこまで苦しそう見えない。恐らく風邪で間違いないだろう。
「医者を連れてきましたから、もう安心してください」
 そう自信を持って慧音が自分の胸を叩く。
 だから私は医者じゃないって。
 と、ここで言っても人間たちを不安がらせるだけだから止めておこう。
 師匠の名誉も傷つける可能性もあるし。
 そうしたら私がどうなることか。
「ありがとうございます、慧音様!」
 父親が歓喜し、母親は胸をなで下ろす。
 そこまで大袈裟な反応をしなくても良い気がするが、きっとこの人間たちにとっては大変なことなのだろう。
 私だって、大事な相手が熱で倒れたのならこんな風になっているかもしれない。
「ほら、早く診てやらんか」
「え、う、うん」
 ボケッとしていると慧音に背中を押される。
 勝手に連れてきておいて、なんて図々しい性格なんだ。
 だけど、里の人間には絶大な信頼を持たれているのだから頭にくる。理不尽だ。
 これが終わったら後でたくさん文句を言ってやる。
 お客様だからって知らないわよ。
 そう文句を思いながらも、私は布団で横になっている娘の傍に膝を着く。
 見た目、十歳行くか行かないかぐらいの幼い女の子。
 熱で顔が紅潮しているが、呼吸は荒くなく一定のリズム。
 痙攣しているわけでもなく、目立った外傷もない。
 意識も失っているわけでもなく、その小さな双眼で私を見つめている。
「うさぎ……さん?」
 小さな、金糸雀のような声。
 声が出せないほど衰弱しているわけでもないが、やはり辛そうな様子である。
「……えぇ、そうよ」
 子供でも、面識のない者と会話をするのは若干だかまだ抵抗がある。
 自分の言葉で相手を不快にさせないか。怒らせないか。そんな不安が付きまとうから。
 だけど今はそれを我慢しなければいけない。
 師匠の名誉のためと、私の身の安全のために。
 すると娘がもぞもぞと布団の中から何かを取り出す。
 それは小さな白い兎の人形。
「じゃあ、この子のお友達?」
「……たぶん、そうかな?」
 それはデフォルメされた可愛らしい兎。
 赤いガラス玉が目となり、短く丸い手足に新品の和紙のような綺麗な布の肌。
 あれ、これって……。
 私はその人形を見て少し疑問が生まれるが、まだはっきりとしないため内に秘めておく。
「辛い?」
「うん……頭がボーッとして、咳がゴホゴホ出て苦しい」
 そう言って、娘は再びケホケホと咳をする。
 やはりただの風邪の可能性もあるが、念のためにちゃんと医者に診てもらわないと。
 病気で苦しんでいる者を見るのはやはり辛い。
 できることなら早く治してあげないといけないが、私はちゃんとした医者じゃないのでそれは無理。
 ただ、今苦しんでいるこの娘を少し楽にすることは可能だ。
 私は背負っていた薬箱を下ろして、中を漁る。
 もう今日は慧音の家に置き薬をするだけしかの量がなかったが、余分もしっかりとある。
 私は紙に包んだ薬を一つ取り出す。
「すみませんが、飲み水はありますか?」
「あ、はい、今用意します」
 母親へと問いかけると、駆け足で台所に移動し、置いてあった湯呑みに飲み水を入れて持ってくる。
 再び娘へと向き直る。
「大変だと思うけど、お薬飲もうか?」
「…………苦いの、嫌い」
「大丈夫、飲めば風邪なんてすぐ治っちゃうよ」
「本当に?」
「ええ、兎さんを信じて」
「……うん」
 半信半疑な顔だが、娘は布団から体を起こす。
「じゃあ、お口を開けてね。お薬を入れてあげるから」
「うん、あーん」
 娘が大きく口を開けたので、私は取り出した薬の包みを開き、中身を娘の舌の上に注ぐ。
 さらさらと粉末状の薬は娘の口の中にこぼれていく。
 今飲ませているのは師匠特性の風邪薬。
 大方の風邪ならなんでも治るという万能薬。
 完璧には無理だが、応急処置のような薬である。
 人間の免疫力を高める効果がある。
 師匠にとっては一番簡単に作れる薬だそうだが、それでも相当難しい組み合わせだと私は思っている。
 分量を間違えれば効果の効きが悪くなる薬。私はまだ分量を量らないと無理だが、師匠は長年の勘で量らなくともすぐにピッタシの分量を取り出せれる。さすがだ。
 ちなみに、これは人間の里でも一番人気の薬でもある。
 便利だからねぇ。
 薬が全て口の中に入ったことを確認する。
「そうしたら、次はお水を飲もうか」
「おひず?」
 苦いのが嫌なのか、娘は口を開けたまま声を発する。
 だけど薬を入れたばっかりだから口を開けて喋ると、口の中から粉が息で外に飛び出してしまう。
「わわ! まだ喋っちゃダメよ! ほらお水」
「はぁーい……」
 湯呑みを渡すと、娘は一気に湯呑みの中身を飲み干した。
 そして次の瞬間、顔をしかめる。
「どう?」
「にがい…………」
「うん、頑張ったね」
 ポンポンと娘の頭を撫でる。
 これでもう大丈夫だろうが、念には念を。
 私は横で心配そうな視線を先ほどから飛ばしている、父親と母親に顔を向ける。
「風邪薬を飲ませたので、とりあえず大丈夫だと思いますが、一応お医者さんには診てもらってください」
 師匠の薬を信じていないわけではないが、ちゃんと診てもらったほうが良い。
 まぁ、やることはやったかな。
 すると、父親と母親が頭を下げ、

「あ、ありがとうございます!」

 ほぼ同時に口を揃えて言った、その言葉。
 感謝の気持ちの言葉。
 お礼をするなら当然出る言葉である。
 だけど、その言葉を聞いて私はあることを思い出した。
 先ほど、慧音の家を訪ねる前に思っていたこと。
 私はなんでこの仕事をやっているのか。
 その理由が思い出せなかったが、今思い出した。
 薬で誰かが喜んでくれるから。
 誰かが笑ってくれるから。
 笑顔を見たいから、この仕事をやっているのだ。
 誰かのために、何かをやれるから、自分が他人の役にたてるから。
 それが好きだから。
 いつも聞いている言葉だから、当たり前になっていたけど改めて考えるとはっきりと思い出した。
 他人に喜ばれるのはなんて素晴らしいことか。
 それが判ると気恥ずかしくなってくる。
 人差し指でポリポリと頬を掻く。
 その間も何度も、何度も、心からお礼を言う父親と母親。
 私は恥ずかしさで何も言えず、ただ微笑んでいるしかなかった。
 悪い気分じゃなかった。
「うさぎさん」
 と、誰かが私を呼ぶ。
 声がするほうを向くと、娘が微笑んでいる。
「うさぎさんって優しいね」
「そう?」

「うん、アリスお姉ちゃんみたい」

 大切な友人の名前が出てきた。
 その名前に、私はやっぱりと納得する。
「その人形、アリスにもらったの?」
「うん、アリスお姉ちゃんに作ってもらったの」
 嬉しそうに娘が兎の人形を抱きしめる。
 人形を見ただけで誰が作ったかなんて判らないけど、こういう可愛らしいデフォルトされた人形を作るのは、私の知っている限りアリスしかいないはず。
 それにこれくらいの人形なら、道具があればそう時間はかからないと言っていたし。
「アリスお姉ちゃんの人形劇見てたんだけど、ボーッとしてきて咳が出てきて、そうしたらアリスお姉ちゃんが私を家まで送ってくれたんだ」
「そうなんだ」
 アリスならありえる行動。
 優しくって世話好き。
 アリスがこの娘を連れて、一緒に歩いている光景が鮮明に想像できる。
 やっぱりアリスは行動力があって良いな。
 羨ましい。
「この子が風邪というのを私が聞いたのも、アリスからなんだ」
 すると今まで口を挟まず黙っていた慧音が語る。
「え?」
「ちょうど寺子屋の帰りでな、アリスにこの子のことを聞いて、家に帰って医者のところに行こうと思ったらお前が来たんだ。なかなかタイミングが良かったぞ」
 はっはっは、と笑う慧音。
 タイミングが良かっただけで、こんなことに巻き込まれるなんて良い迷惑だ。
 まぁ人助けは悪いことじゃないから、良いけど。
 だけど私はアリスを待たせているのに……あッ!
 そうだ! ドタバタしていて忘れていたがアリスを待たしているんだった!
 外はそろそろ黄昏時に染まってきている。
 間もなく夜がやってくる。
 この時間ならアリスはまだ待っているかもしれない。
 早く行かないと!
 私は薬箱を背負いながら勢い良く立ち上がる。
「も、もう大丈夫なようだし、私は帰りますね!」
「おい、どうしたのだ?」
「用事があるので! それでは!」
「うさぎさん」
 慌てて駆け出そうとした時、娘が私を呼び止める声。
 慧音の声は無視するつもりだったが、娘の声は無視するのは悪いと思ったので振り向く。
 すると娘は兎の人形を抱きしめながら微笑む。
「ありがとう」
 そう言った。
 また、心が暖かくなった。
 やっぱり、私はこの仕事が好きだな。
「……どういたしまして」
 笑って私はそれに答える。
 軽く手を振り、少女と別れを告げて家を飛び出そうとした際、人間の男が家に転がり込んできた。
 突然のことに家の中にいた者は驚き、私は駆け出すタイミングを失った。
 なんなのよ、今度は!
 息を荒くして、男は家の中にいる慧音を見つけると口を開く。
「け、慧音様! 俺の兄貴が屋根から落ちたのですが、助けてください!」
 そう男は叫んだ。
 そして、私は嫌な予感を感じる。
 あれ、まさか。
 そう思った時、誰かに腕を捕まれる。
 それは慧音。
「それは大変だ! 急いで行くぞ!」
 そう慧音は叫んだ。
 やっぱり!
 文句を飛ばそうとした時には慧音は私を引っ張って走り出す。
 早く行かないといけないのに!
 家を飛び出す時、娘が私に向かって手を振っているのが見えた。

     ☆

 すっかり陽も暮れてしまい、周囲は夜の闇に包まれる。
 夜の人間の里を駆ける。
 体に吹く風は冷たく、刺すように痛い。
 もうすっかり夏は終わりを告げ、冬に向かって着実と近づいていることが判る。
 あれから私は慧音に色々付き合わされ、屋根から落ちた男に、喧嘩をしていた者の治療。さらに再度風邪を引いた子供の診察。
 そんなことに付き合わされたらすっかり陽が暮れた。
 やっとのことで解放されたが、もうくたくたである。
 治療などで使用した薬の料金は全て慧音が払ってくれたが、もう嫌だ。
 今すぐ永遠亭に帰りたいが、私にはまだやることがある。
 私はあそこに向かう。
 あのアリスと最後に別れた場所へ。
 もうすっかり夜になってしまい、あれから結構な時間が経った。
 アリスは待っているはずではない、そう思ってもなぜか嫌な予感がした。
 アリスは帰っているはず。
 今は寒いし、夜も遅いし、私も遅くなると言ったから。
 私はそれを信じたい。
 信じたい、けど信じられない。
 だから私は走っている。
 冷たい風を肌で感じ、息を吸うたびに肺を冷たい空気が支配する。
 そして私は、アリスが待っていた、はずの場所に到着する。
 茶屋は閉まっており、周囲には人影が見えない。
 とても静かな、夜の里。
 ……良かった。
 私は胸をなで下ろす。
 アリスは私を待っていなかった。
 当たり前だよね、こんな時間まで待っているわけないよね。
 それに寒いし、アリスはたしかあまり着込んでいなかったはず。そんな姿でここにいたら風邪を引いてしまう。
 良かった。
 だけど、アリスには悪いことをしたな。
 今度お詫びでもいないと。
 良かった。
 良かった。
 よか…………。
 私は、言葉を失う。
 目を見開き、ドキッと胸が高鳴る。
 背中に嫌な汗が流れる。
 茶屋の壁を背もたれにして、誰かが座っている。
 夜の世界の中に、異様に目立つ金髪の髪。
 人形のような細い体で、膝を抱え込んでウトウトと寝ている。
 夜の世界の眠り姫。

 アリスが、そこにいた。

 なんで……。
 私は動揺する。
 いるはずのない彼女。
 もう帰っていると思った彼女。
 だけど、たしかにそこにいる。
 見間違えることのない容姿。
 なんで…………。
 私は動揺しながらも、アリスへと近づく。
 膝に顔をうずめているわけではないが、小さくなって座っているアリス。
 私は彼女の肩を掴み、ゆっくりと揺らす。
「アリス、アリス」
「…………んあ、鈴仙?」
 目をパチクリとしてアリスが目を覚ます。
「ここで何しているのよ?」
「遅いじゃないの、待ちくたびれて寝ちゃったじゃない」
「あ、ごめん……って、だからなんでここで待っているの! 遅くなるから帰ってって言ったじゃないの!」
 つい声を荒げてしまう。
 待たせた私が悪いのに。
 それでもアリスは眉を八の字にして困ったように喋る。
「だって、貴女が急いで帰ってきて私がいなかったら悪いじゃない……だから待っていたらこんな時間に」
「私なんて気にしなくってもいいのよ。今度会えるのだし」
「でも、今日一緒に買い物したかったし……こんな時間じゃもう無理だけど、貴女を待っていたかったの」
「アリス…………」
「それでね、待っている間にこんなのを作ったの」
 そう言い、アリスが何かを取り出した。
 暗がりでよく見えなかったが、目を凝らしてみるとそれは人形だと判る。
 白くて長い耳が二本。だけど人の形をしている人形。
 頻繁によく私が見ている洋服を身にまとっている兎の人形。
 そう、それは今の私の姿をデフォルメして模した人形。
「どう? 可愛いでしょ、鈴仙の人形」
「え、どうしたの、これ?」
「待っている間に作ったの。なかなかの可愛いでしょ」
 にっこり微笑みながら、アリスが言う。
 どう見ても私の姿を模している人形を可愛いと言われ、少し照れてしまう。
 だけど、私は人形よりもアリスのほうが可愛いと思う。
 無邪気な笑顔を向けてくれるアリスは、夜の世界で言う月のように眩しく見とれる存在。
 周囲は静寂に包まれる。
 私とアリスの声だけが響く。
 アリス、貴女は羨ましい。
 他人と接し、いつも魔法に関して研究熱心。
 現在を精一杯生きている。
 そんな貴女が羨ましい。
 ダメダメな私が傍にいたら、邪魔になるかもしれない。
 だけどアリスは私を拒絶しない。
 いつも笑顔で手を取ってくれる。
 どうして貴女は優しくしてくれるの?
 どうして、私と接してくれるの?
 だが、そんなことを面と向かって聞く勇気はない。
 それを聞いて、どんな答えが返ってくるか判らないから。
 しかし、それでも私は今の関係が嫌いじゃない。
 アリスと一緒にいられるなら。
 アリスと手を取り合っていけるのなら。
 私は今が楽しい。
 アリスはどう思っているのだろうか。
 朱色に頬を染めるアリスは、人形の耳を触りながら、にこにこしている。

 ……………………ん? 頬を朱色に?

 私はアリスのその頬に疑問を持った。
 よく見てみると、頬だけではなく顔全体が赤い。
 しかし、アリスはそれに気づいていないかのように、人形に触っている。
 なぜ、顔全体を紅潮させているのだろうか。
 私は疑問を解消するために、アリスの額に手を伸ばす。
「どうしたの、鈴仙?」
 首を傾げるアリスだが、私は彼女の額に手を乗せる。
 アリスは特に目立った動きも見せず、額に触れている私の手を上目遣いで見ている。
 アリスの額…………少し熱いかも。
 まさかッ!
「アリス…………貴女、風邪引いていたの!?」
「え? そんなわけは…………へっくしゅっ!」
 口に手を当てて小さくくしゃみをするアリス。
「そういえば、さっきからボーッとしているような…………」
「風邪を引いているじゃないの!」
 熱があってそんな症状。
 どう見ても風邪である。
 よく考えてみると当たり前である。
 最近は季節の変わり目で気温の変化が激しく体調を崩しやすく、それにアリスの服装はどっちかというと、夏よりの服装である。
 その姿でこんなところでずっといたのなら、風邪を引くに決まっている。
 それに、先ほどの家で風邪の娘を家まで送ったと聞いたが、その時に風邪が移ったのかもしれない。
 本来、妖怪は人間の風邪にはかからないが、アリスは元人間である。人間の風邪にかかっても不思議ではない。
 って、今はそれ理解している場合じゃない!
 これは私の責任である。
 曖昧な返答でアリスを待たせていたから。
 私はなんてバカなことをしたのだろう。
 アリスの性格を知っていたのに。
 と、とにかくなんとかしないと。
 私は首を傾げているアリスを、抱きかかえる。
「きゃっ、れ、鈴仙?」
 羽のように軽いアリスは、驚きながら私を見てくる。
 とにかく一刻でも早く看病しなければ。
 だけど、ここからアリスの家や永遠亭までは遠い。
 ならば…………。
「慧音の家を借りて、アリスを看病するわ」
「え……あの教師に? でも迷惑じゃないかしら……」
「良いのよ、今日は散々私をこき使ったのだから、使わせてもらうわよ」
「私が気を使いそうなんだけど」
「大丈夫、冷える夜の間だけだから、明日の昼ぐらいに永遠亭に行って、師匠にちゃんと診てもらうから」
 こんな夜に瘴気や茸の胞子が漂う魔法の森を通ったら、弱っているアリスはさらに体調を悪くするに違いない。
 永遠亭は何もないが、遠いため長時間寒空の下にいることになる。
 ならばここから一番近い知り合いの場所に行くしかない。
 それならば答えは必然的に慧音の家となる。
 さぁ急いでいこう、と思った瞬間、ふくらはぎ部分の服を引っ張られる感覚。
 なんだと思うと、アリスが私の服を引っ張っている。
「ねぇ、鈴仙……私をあの教師の家に送ったら帰っちゃうの?」
「え、薬とか持っていかないといけないし、師匠も心配するし……」
「……そっか」
 残念そうに目を伏せるアリス。
 そんな顔しないでよ……申し訳ないじゃない。
 と、アリスは再び私に視線を戻す。
「今夜、私の傍にずっといてくれない?」
「え!?」
「不安だから一緒にいてくれない? 私、鈴仙と一緒にいたいの」
 上目遣いで小動物のようにアリスは私を見ている。
 ドキッと胸が高鳴る。
 可愛い。愛くるしいほど可愛い。
 今すぐ抱きしめたい。
 胸が熱くなる。
 今、私はアリスを抱きかかえている。
 アリスと密接に触れ合っている。
 アリスの体温、アリスの鼓動。
 それらを全て、はっきりと感じられる。
 抱きしめたい。
 本能のままに動きたい。
 だけどそんなことはやってはいけない。
 抑えなければ全てが壊れるかもしれないから。
 私を見つめるアリス。
 私はその目を離せない。
 アリスに気づかれないように大きく深呼吸する。
 動揺する私の心は幾分か落ち着く。
 きっと、アリスは熱で頭がはっきりとしていないのだろう。だからあまり面識がない慧音の家に泊まるのは抵抗があるから、私にそう願ったのだろう。
 きっとそうだ、そういうことにしよう。
 そうしないと、いけない気がしたから。
 心配そうに見つめるアリスに、私は笑顔で答える。
「うん、良いよ。アリスがそれを願うなら」
 私も、アリスと一緒にいたかったから。
 私を求めてくれたアリスに応えるため。
 それを聞いて、アリスの瞳から不安の色が消える。
 そしてゆっくりと潤った果実のような唇を動かし、

「ありがとう」

 そう笑顔で言った。
 今日、たくさん聞いた言葉。
 やっぱり、その言葉を聞くと自分が他人に認められるようで嬉しかった。
 短い言葉だけど、私は好きな言葉。
 また恥ずかしくなって、アリスから目をそらす。
 だってそれ以上見ていたら、理性が抑えられないと思ったから。
 なんでだろう。
 人間に、ありがとう、と言われても恥ずかしいだけだったが、なぜかアリスにお礼を言われたら、また先ほどのような感情が蘇ってくる。
 どうしたんだろう、私。
 くしゅんっ、と小さくアリスが再びくしゃみをする。
 おっと、ここで止まっているわけにはいかない。
 私はアリスを抱えて、夜の里を走る。
 吹く風は冷たかったが、私の体は内側から熱く燃えるような感覚だった。
 アリスが傍にいる感覚が、暖かかった。




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