陽が傾き始め、まもなく幻想郷が黄昏色に染められようかと思える時間。
 先ほどまで視界がままならないほど吹雪いていたが今はすっかり止んでしまい、足を踏み入れれば足首より上まで埋まってしまうほどの雪が積もっていた。
 積もった雪が漂う空気を冷たくし、周囲の音を吸収してやけに静かな空間を作りだしている。
 永遠亭を囲む竹の細い枝にも雪が積もり、時折重みに耐えかねて、ずるっと地面に落ちてくる。
 動物たちは冬眠のまっただ中、こんな寒い世界で外に出ようと思う者は希有な存在だろう。
 私だって屋敷の中でぬくぬくと暖を取りたいが、そういうわけにもいかない。
 深緑のマフラーを首に巻き、毛糸の手袋を身につけながらスコップを握りながら屋根の上にいる。いつも履いている靴は屋敷の中に置いて、今は真っ黒な長靴を履いて屋根に積もった雪の上を歩く。
 本当は屋敷の中にいたかったが、師匠の命令で屋敷の雪かきをする羽目になってしまった。たしかに雪が積もったら重みで天井に穴が開くかもしれないし、こまめにやっておかないと後々ツケが回ってくる。
 しかし、判っていても嫌なことは嫌である。
 それでも私が師匠に逆らえるわけもなく、渋々といった形で重い足取りで今に至る。
 手に持ったスコップを持ち直し、屋根に積もった憎たらしい雪どもを地面へと突き落としていく。
 まだ積もったばかりなのか柔らかい雪の塊はサクサクと屋根の下へと落ちる。
 もちろん屋根の雪かきをしているのは私だけではない。他の妖怪兎たちも私と同じようにマフラーと手袋を身につけ、さらにもう一枚防寒着を身につけている。
 地上の兎は寒がりなのか、単に私があまり寒くないのかスカートを履いて素足がさらけ出されているにも拘らず、私は防寒着を身につけるほど寒いとは思えなかった。寒いことには変わりないけど。
 とにかく四羽ほどの兎たちが私の周囲で雪かきをせっせと続け、庭のほうでは落ちた雪を別の兎たちが庭の端へとせっせと運ぶ。永遠亭の兎たちをほぼ総動員して雪かきを行う。そうしなければ陽が暮れる前に終わらない。
 他の兎たちも早く終わらせたいのか、黙々と雪を屋根の下へと落としていく。
 庭のほうにいる兎たちも雪玉を作ってゴロゴロ、ゴロゴロ……って、ちょっと。
 横目でチラッと入った光景に驚きながら、私はその方向へと顔を向けた。
 視線の先は永遠亭の無駄にだだっ広い庭。今は雪が積もっており、白い敷布をシワなく敷いたような銀世界。
 そんな銀世界の上で、数羽の兎たちが身長の半分になろうかと思えるほどまで大きくなった雪玉を楽しそうに転がしている。キャッキャと幼い子供のようなハシャぐ声を出しながら。
「てゐ!! 何やっているのよ!!」
 明らかにサボっているとしか思えない兎の集団で、どう見ても遊びを先導していると思える兎に対して怒鳴った。
 呼びかけた兎は私に気がつき、癖っ毛の強い黒髪を靡かせ、二本の大福のような兎耳を揺らしながら振り向いた。
「あ、鈴仙様〜、もうすぐ雪だるまができますよ〜」
 地上の兎のリーダー的存在である、妖怪兎の因幡てゐが満面の明るい笑顔を振りまきながら手を振っている。
「雪だるまなんて作っていないで雪かきしなさいよ!」
「一応していますよ〜。こうやって雪玉を転がしながら」
「どう見ても雪が積もっていないところをぐるぐるしているでしょ!!」
「きゃははっ、鈴仙様が怒った〜」
 まったく反省の色を見せずにてゐとその仲間たちは逃げるようにどこかに走り去ってしまった。
 あの子たち、あとでお仕置きしないといけないわね。
 どうもてゐにはなめられっぱなしで、月の兎である私に敬意が足りないわね。ここは一発ガツンと言わないとね。
「まぁいいじゃないの」
 拳を作りながらてゐの仕置き方法を思考していると、背後から大人びた風のような声で誰かが話しかけてくる。
 その声に振り返ってみると背後には一人の女性が屋根から少し宙に浮いた状態で立っていた。
 空のように真っ青なロングスカートの腰に白いフリルがついたピンク色のリボンを巻き、肩に掛ける白いケープが変に幼く童話のように可愛らしく見える。ピンク色の暖かそうなマフラーを首に巻き、周囲に積もる雪と同じ真っ白な耳当てをつけ、彼女の肌はあまり見えない。
 細い体つきに肩まで伸ばした輝くような金髪。そして新鮮な果実のように真っ赤なカチューシャ。丸みを帯び人形のようにしっかりと可愛らしい顔。そしてアクアブルーのような双眼が私を見据える。
 彼女の名はアリス・マーガトロイド。魔法の森と呼ばれる人間や妖怪があまり近寄らない森に住んでいる魔法使いであり、人形遣いでもある。
 私の数少ない永遠亭以外の知り合いでもあり、大切な友達でもあるアリス。
 人形遣いと言うだけあって、今も彼女の周りには同じような衣装を着て、同じように防寒具を身につけている可愛らしい人形が八体ほど私の持っているスコップを収縮したような小さなスコップを持ちながら浮いているのだ。
「雪だるまがあると結構見栄えがいいわよ」
「……そうはいうけど、早くしないと陽が暮れるよ」
「屋根の雪を落とせばあとはどうにでもなるわよ。さっさと終わらせましょう」
「うん……ごめんね、手伝ってもらって」
「いいわよ、別に急いでいるわけでもないしね」
 今回の雪かきは私たち永遠亭の兎だけではなく、アリスも雪かきに協力してくれているのだ。
 当初は私たち兎だけで行う雪かきだったが、ちょうど本の読みすぎで目が痛いからと目薬を求めてきたアリスがやってきて、目薬ができるまでということと、目薬代ということでアリスも手伝うことになってしまったのだ。
 私は当初、そんな力仕事をアリスにやらせるわけにはいかないと反対したけれども、目薬代がいらないということが利いたのか、アリスは迷いなくそれを了承し今に至る。
 本当は最初、アリスが雪かきできるか不安だった。
 どう見たってアリスは体より頭を使うほうが向いているように見えたから、スコップすらまともに持てないのではないかと思えた。
 そう不安に思っていると、アリスは短く何かを呟き、指で小さく円を描いた。するとアリスの周囲に今彼女が従えている人形たちが突如として現れたのだ。まるで水面からゆっくり上がってくるかのように。
 そうしてアリスは人形たちを使って雪かきに参加することとなった。
 アリスは長靴は履いていないため、足が雪で濡れたりしないように浮きながら雪かきを行なう。
 実際のところアリスが手伝ってくれて助かっている。
 アリスは屋根に積もった広範囲の雪を効率よく屋根の下に落とし、下の兎たちも運びやすいよう雪かきを行い、全体の作業効率が上がっていることが実感できる。
 これならば早く雪かきが終わりそうである。
 埃や塵を落とすように雪かきを行うアリスの人形部隊。このままでは私がいる意味がないので負けずに雪を落としていく。だけど、アリスと比べると私は亀のように遅い。兎なのに。


     ☆


 なぜ? どうして? 意味が判らない。
 先ほどからそんな言葉がまるで洞窟内のように酷く反響していた。
 なぜか私の部屋には布団が二つ敷かれており、片方は私がいつも使用している慣れた肌触りの布団である。もう一つは別の部屋から持ってきたどこにでもある布団。
 いや、別に布団があることはあまり気にしないでおこう。それより問題がある。
 なんでアリスが私の部屋に泊まることになったのよ。 
 雪かきは順調に進行していたが、止んだ雪が再び降り始め、すぐに吹雪き始めてしまった。
 ちらつく程度の雪だったら問題なく作業が続けられたが、こうも強く降ってしまうとどうにもできなくなってしまった。それでも作業は終盤まで進んでいたので、今日はそこまでとなり作業者は全員永遠亭へと戻った。
 少ししたら弱まると思ったが、その気配はまったくなく強い風に雨戸が叩かれる音のみ屋敷内に響いた。
 私たちは別に問題はなかったのだが、アリスには問題があった。
 吹雪いている中を自宅へ帰るなんて危険であるし、今は吹雪いていて昼でも視界がままならないのでまともに帰れるか判らない。
 そういったことから師匠の提案でアリスは永遠亭に宿泊することが決まった。
 そこまでは判る。
 普通の考えであり、普通の成り行きである。
 なぜ、私の部屋にアリスが泊まることになったのかが判らない。
 永遠亭は無駄にだだっ広いし、空き部屋なんて数多くある。それなのになんで私の部屋なんですか! とこの案を出した師匠に抗議した。
 そうしたら師匠は、
『知っている相手の部屋なら気を使わず休めるでしょ』
 と気を利かせたような回答をしてきて、これを拒否したら師匠を不機嫌にすることは目に見えていたし、私がアリスを拒んでいるように思われてはいけないという答えが出たので渋々承諾した。
 そしてアリスは今、他の兎たちと入浴中である。私は一足先に入っていたからアリスと入浴することはなかったが、これはこれで助かったかもしれない。
 私はアリスの裸を見るとどうも顔から炎が吹き出るように熱くなり、まともな思考ができなくなってしまうようで、そんな姿を他の兎の前で見せるわけにはいかなかった。威厳というものがあるし。
 とにかく私は自分の布団の上で寝間着に着替えて座り、どうしようかと頭を抱えていた。
 別に悩むことはないのだが、自分の部屋でアリスと二人っきりという状況が始めてだから非常に緊張している。
 何度かアリスの家に泊まったことがあるが、そのたびに顔を真っ赤にしていた記憶が蘇る。というか真っ赤にしていない時なんてなかったはずである。
 不安である。
 寝れるか不安であるし、どうなるかも判らないから不安である。
 とにかく不安の不安の不安である。
 もう不安で自分が何を考えているか判らないが、不安である。
「――――――――!?」
 部屋の戸が開く音が緊張している耳の中に入り体が大きく跳ね上がった。危うく悲鳴まで出そうになるがさすがにそれは押さえる。
 まるで背後から大声を出されて不意をつかれたように、心臓がやかましく鼓動している。
 荒くなりそうな息づかいを落ち着かせながら、開いた戸の方向へと振り向くと、そこには風呂場から戻り顔を火照らせるアリスがいた。
 永遠亭に住んでいる兎たちはほとんどが人間の子供のように小柄な者が多く寝間着も小さめの奴しか置いていない。もちろんアリスの体躯に似合った寝間着はなかったため、私が作った自分用の寝間着を彼女に貸してあげた。
 だけどアリスは私よりも若干小柄な体躯をしており、私の寝間着は少し大きいのか手の甲を半分まではいかないものの袖に隠している。
 しかし、いつも洋服ばかり着ており、少し大きめの寝間着を無理して着ているアリスは何か微笑ましく見え、これはこれで可愛いように思えた。と何を考えているのかと恥ずかしくなってしまう。
「……遅かったね」
 照れる気持ちを隠すためアリスに問う。
 何気にアリスが入浴すると言ってから結構な時間が経過しており、のぼせているかと思える時間でもある。
「ええ、てゐたちに捕まっていてね」
「そっか……ごめんね、うちの子たちが迷惑をかけて」
「いいわよ、皆子供っぽい明るい笑顔を向けてくれるしね」
「アリスは兎たちから見ると珍しいからね」
「珍しいの?」
「うん。兎たちは黒髪でアリスのように肌が白くないから、自分と違うアリスに興味を持っているんじゃないかな」
「そうかしら……」
 アリスは自分の前髪を掴み物珍しそうに観察している。
 実際、兎たちがアリスに興味を持つのはなんとなくだが判る。
 アリスの髪は夜空に浮かぶ月のように金色で輝いており、肌も外に積もっている雪のように真っ白で美しい。永遠亭の者はほとんど黒髪となっており、肌も健康そうな肌色である。人形のような容姿を持っているアリスに興味を持つ理由は十二分にある。
 そして何よりも、アリスは、
「それにアリスは綺麗だしねぇ」
「え…………?」
 ポロッと、言葉が漏れてしまった。
 アリスは綺麗である。
 人形のような可愛らしさを持っておりながら、大人びたような美しさも同じように持っている。造形のように整った顔立ちは誰が見ても綺麗と言える部類である。
 私もアリスは綺麗だと思っている。だからその本音がついこぼれてしまった。
 ただの誉め言葉で、別に気にすることはないはずである。ましてや同姓の言葉だから日常会話程度に流せるはずである。
 それなのに、私の言葉を聞いたアリスは風呂上がりで火照っている状態よりも頬を朱色に染めて驚いき、照れるようにもじもじと体を強ばらせた。
「あ……ありがとう……」
 照れる顔を隠すようにうつむきながらアリスが小さく呟いた。
 部屋の空気が一瞬にして変化したことが感じ取られ、予想外の反応をされたため私はどう反応していいか戸惑ってしまう。なぜか急に恥ずかしくなってしまい言葉が詰まる。
 そういえば、先ほど一瞬見えた照れているアリスの表情は可愛いなぁ……って私は何を考えているんだ、と一人で突っ込みを入れてしまう。
 なんでそんな反応をするのよアリス。
 そう問いかけようにも恥ずかしさが勝って言葉が出ない。
 横風が雨戸を叩く音しか部屋の中に存在せず、私たちは無言でただ流れゆく時間を過ごしていた。
 それでも重苦しく拘束するような空気ではない。むしろ何か背中を押しているかと思える暖かいそんな空気。
 こんな空気をいつまで続けるのはあまりよろしくない。
 アリスも部屋の入口から一歩も動いておらず、まだ照れるように顔を伏せている。
 ここは私が勇気を出さないと。
 勇気を……勇気を……。
 よ、よし……。
「も、もう遅いし……早く寝ようか」
「うん……そうね……」
 あまりの緊張で声が裏がえったかもしれないが、そんなことは知らない。とにかくこの無言の世界を解かなければいけない。
 私はとにかくアリスをその場から移動させるきっかけを作る。何かどこからか、臆病者という声が聞こえてきたような気がするけど、幻聴に違いないから気にしない。
 入口で止まっていたアリスも、やっと動くことができることに安心したのか、はにかんだ笑顔で私の隣に敷いてある布団へと静かに移動する。
 移動するアリスの表情はまだ照れており、彼女の表情を見ているとまた恥ずかしくなってしまう。このままでは理性を保つことは難しくなると思われるので私は逃げるように布団へと潜り込む。
 なんで寝る前にこんな緊張しないといけないのよ、と誰に対してでもなく文句を心の中で抱く。
 行灯の光に照らされた天井は薄暗く、闇と光が曖昧な境界線を描き出している。雨戸を閉めているため外の明かりはまったく入らず行灯の光だけが部屋の中に広がる。
 いつもは気にならない境界線だが、今はそれに気づくと非常に気になって仕方がなくなってしまう。やはり落ち着いていない証拠なのだろうか。
 と、隣の布団にアリスが潜り込む。
 頭を倒して隣に視線を向けると、アリスは布団を肩までしっかり被っており、頭を倒して私を見つめていた。
 行灯に照らされるアリスの顔に、濃い影が映し出され、彼女の顔の彫りの深さがはっきりと判る。どんな状況でもやはりアリスは美しい。
 私にないものをアリスは持っている。
 私にはアリスのような美しさがないのが悲しい。
 師匠や姫様のように綺麗だったら、アリスと一緒にいられる資格があるかもしれないのに。アリスは私に優しくしてくれるけど、私はアリスと同じ道は歩けないのかもしれない。
 そう思うと少し気分が暗くなってしまった。
「……灯り、消すよ?」
「ええ、お願い」
 表情に出る前に、私は行灯の火を消す。
 一瞬で部屋の光は消え失せ、月明かりも何もない暗闇が部屋の中に広がる。見えていたアリスの表情も闇の中に消えてしまい。少し名残惜しい気持ちになったが、アリスに今の気持ちを悟られるよりはいい。
 再度布団の中に体をちゃんと潜らせ、見えない天井へと視線を向ける。
「おやすみなさい、鈴仙」
「うん、おやすみ、アリス」
 闇の中から聞こえるアリスの声に答えるよう私は彼女に声をかける。
 暗い気分を忘れるためにさっさと寝てしまおうと、瞼を閉じ静かに眠りを待つ。
 時間がゆっくり進んでいるのか、それとも止まっているのか。まるで別世界のような静けさが私を包む。
 今日は雪かきで体を動かしたし、すぐ寝れるかと思った。しかし、一つ問題が新たに発生した。
 寒いのだ。
 とにかく寒いのだ。
 布団の中はまだ温もりを持っておらず、冷えきっている状態なのだ。
 しばらく寝ていれば暖まってくるのだが、その間が耐えがたくつま先や指の先がとにかく冷える。さらに現在、外は吹雪いているためかいつもよりも一段と寒かった。
 早く暖かくならないかな、と思って丸まるように体を強ばらせるがあまり変わらない。たまに聞こえてくる雨戸を叩く風の音が寒がる私をバカにしているように思えてきた。
 うぅ……兎は寒いところが苦手なのよ、と妖怪兎であり月の兎である私にあまり関係ないことを理由にして外の雪に文句を飛ばす。もちろん伝わるわけもない。寒い。
 と、布団が引っ張られたような感覚を感じる。
 なんだろうとそちらに視線を向けても暗すぎて目の慣れていない現状では何も見えない。だがたしかに誰かが引っ張っている。
 すると今度は私の布団の中へと何かがモゾモゾと侵入してきたではないか。そしてその何かは私へとくっついてきた。手や膝、胸元に何かが柔らかい肌のようなものが触れる。
 一瞬なんだと思ったが、すぐさまそれが何か判った。
 その何かは人肌のような感覚であり、何かが侵入してきた方向にはアリスが眠る布団が敷かれているはずだ。ならば答えは一人しかいないではないか。
 判った瞬間に全身が燃えるように熱くなり、再び鼓動が張り裂けそうなばかり高鳴る。
「あ…………あり…………アリスッ!?」
 隠しきれず動揺した口調で侵入してきたアリスへと問いかける。
「ごめんね、寒かったから」
 胸元辺りから聞こえた声はやはりアリス。
「で、でもなんでこんな!?」
「誰かと一緒に寝ると暖かくなるでしょ?」
「あ……そうだけど……」
 たしかに暖かくはなった。だけどこれは違うのではないだろうか。
「いや、だった……?」
「え!? そ、そんなことないよ! むしろ嬉しいよ!!」
 私は何を言っているのよ! 嬉しいなんて変態じゃないの! と本音がすでに隠せる状態ではなくなってしまった。
「本当?」
「う、うん!」
 もうどうにでもなれ。私の感情は止められないよ。
 自分の意志の弱さに涙を流しそうになると、アリスは何を血迷っているのかさらに私に密着しだした。
「ありがとう、嬉しいわ」
 子供のように喜びながら、赤子のように頭を寄せて甘えてくる。大人びたアリスからは想像できない言動で、とても可愛く思えた。
 今すぐ抱きしめたい衝動に駆られるが、そこは友達としての越えてはいけない一線に踏みとどまる。
 また部屋に静寂が戻ってくる。
 だけどアリスの鼓動や、息づかいが直に伝わってくる距離まで近づいているので眠気が吹き飛んでしまう。
 それでも一枚の掛け布団を二人で使っているので、アリスの体温も混ざってすぐに暖かくなる。
 まぁ、アリスが喜んでいるしいいのかな。
 いいよね、たぶん。
 私も嬉しいし。それに暖かいし。
 アリスと釣り合わないけど、こうやって触れていられるから、今はこの時を楽しもう。
 この暗闇の中、アリスが寝てしまったかは判らない。もしかしたらもう寝ているかもしれない。
 だから眠りの邪魔にならないよう、暗闇の中、静かに私はアリスの手に触れた。
 暖かい。


     ☆


 浅くなった眠りの中、縁側の雨戸を開ける音が微かに聞こえ目を覚ます。
 まだ重たい瞼を何度も瞬きし、眠気を飛ばす。
 はっきりとしない寝ぼけた意識の中、私がある異変に気づくのは少し時間を要した。
 だけどそれがどういうことか判った時には意識が一瞬で覚醒した。
 眠りに落ちる前の記憶ではアリスが私の布団の中に入ってきたことを覚えている。その時はもう酷く動揺していたことも覚えている。
 そこで私の記憶は消えていた。
 きっと眠ったのは間違いない。
 だがこの状況はどういうことなのだろうか。
 まったく意味が判らなかった。

 どうして私はアリスを抱きしめている状態なのだ。

 遠くから雨戸の開く音がだんだんと近づいてくる。だけどまだ私の部屋は薄暗く夜のように視界がままならないが、雨戸の隙間から漏れる晴天の光はうっすらとだが目の前の存在を映し出す。目の前にあるのはたしかにアリスの頭である。
 そして全身の感覚で現状を最大限に理解すると、私はどうみてもアリスを抱きしめている状態だった。
 アリスの硝子細工のような小さな肩を私の腕が大きく抱きしめ、アリスの花のように美しい足に私の足が絡みついていた。
 なぜそのような状況になっているかはもちろん判らなかった。
 判っていたらこんなにも動揺するはずがないのだから。
 すると、私の部屋の近くの雨戸が開けられたのか障子越し陽の光が部屋の中へと一気に侵入した。
 部屋が明るくなった瞬間、私の血の気が一瞬にして失せた。
 失せたというよりも、何もかもがなかったように意識が遠のいた。
 たしかに私はアリスのことを抱きしめていた。そこはいい。いや、よくないが……。
 問題はその抱きしめているアリスの衣服が大幅に乱れていることだ。
 普通に寝間着を着ていれば見えるはずがない鎖骨や、アリスの雪のように白い肌が隠されておらず、さらには乳房も彼女の手で隠しているだけでほとんどさらけ出している状態だ。
 要するにアリスは上半身がほとんど裸に近い状態になって見えているのだ。
 そんなアリスを私はしっかりと抱きしめているのだ。信じられないありえない状況。その光景を見た瞬間全身が燃えるように熱くなり、嫌な汗が背中を駆け巡った。
 本当は一刻も早くアリスから離れてこんなことなかったことにしたかった。
 しかし、世の中そんなにあまくなかった。
 光が部屋の中を照らした時、しっかりとアリスはそのアクアブルーの双眼を見開いていたのだ。トマトのように顔を真っ赤にしながら深く呼吸をしていた。
 まるで閻魔様に地獄行きを宣告されたかのような絶望感が私を包む。
 もしアリスが寝ているようだったら少し離れて寝間着をちゃんと着せた後、何事もなかったかのようにすればもしかしたら問題なかったかもしれない。
 だが今はどう見ても、アリスは目を開けて起きている。
 寝ぼけ眼ではなく、確実に現状を把握しているに違いない。
 私は頭が真っ白となる前に、慌てて布団から飛び起き、すぐさまアリスに向かって土下座をした。
 勢い余って畳におもいっきり額をぶつけるが、そんなことは別に構わなかった。
「ご、ごめん、アリス!!」
 とにかく私は謝った。
 何をやったかと聞かれると本当に寝ていたから記憶に何もないのだが、現状を考えると私が何かをやったのは間違いない。
 なのでとにかく謝ることにした。
 必死に謝る。
 誠心誠意込めて謝る。
 土下座をして下げた頭を少し上げ、まだ布団の上にいると思われるアリスを恐る恐るだが覗き見ると、さらに私の全身から血の気が引く。
 掛け布団を吹き飛ばす勢いで飛び起きたため、掛け布団は部屋の隅に飛ばされ、何もない敷き布団の上にアリスは座っている。
 アリスは先ほど上半身がほぼ裸だと思っていた。
 だが、それは大きな嘘だった。
 てゐも驚くほどの大嘘だった。
 敷き布団の上に座るアリスは肘部分まで寝間着がずれ落ち、腰の帯も解けており、ヘソや太股、素足、下着までもが隠されず露わとなっている。
 全裸に限りなく近いような状態で、寝間着が隠している部分と言えば肘から手の甲の間の部分と腰の側面部分となっており、隠さなければいけない場所をまったくと言っていいほど隠れていない。
 アリスは腕で乳房を隠しながら、顔を伏せたまま動こうとしない。私も最悪の状況で背後から凶器を突きつけられているかのような緊張感に動くことができない。
 最悪だ、最悪すぎる。
 昨夜までは幸せな時を過ごしていたはずなのに、目が覚めたら目の前には最悪の光景が広がっていた。
 いや、アリスに触れれたし、さらには彼女の裸も見れたから幸せ……って私は何を考えているのよ。
 友達の裸を見て喜ぶなんてただの変態じゃない!
 必死に謝っているのにも拘わらず、そんないやらしい考えをするなんて私はなんてバカなんだろうか。愚かなほどバカである。
「鈴仙様ああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!」
 刹那、永遠亭全体を揺らすかのような怒号が部屋の中へと響いた。
 私はその怒号に全身を大きく揺らしながら、声にならない悲鳴を上げて顔を上げる。
 心臓は激しく鼓動し、魂が冥界に誘われたかと思えるほど意識が遠くなった。
 その声の主はアリスの背後である、部屋の縁側方面から声を張り上げていた。
 アリスも驚きながら背後にいる声の主へと恐る恐るとだが顔だけを向けていた。
 障子を乱暴に開け声を張り上げた犯人はてゐだった。
 だがその表情は眉間にシワを寄せ、猛禽類のような表情で私を睨みつけながらも、なぜか頬は朱色に染まっている。
 よく見るとてゐの背後には二羽の兎が隠れるようにこちらを伺っており、その二羽も頬を朱色に染めている。
「信じられません! そんなことする方とは思いませんでした!!」
 今にも殴りかかってきそうな剣幕でてゐは怒鳴ってきた。
 どうやらこの状況を見て、私がアリスに何かしたと思っているようだ。
 明らかに誤解している。私は何もやっていない。
 だってそんなことやった記憶なんてないのだから。
 理由になっていないが、本当のことだから仕方がない。
「ちょ、ちょっとてゐ……何を……」
「しらばっくれても無駄ですよ! この子たちから全部聞きました!」
 そう言って、てゐは背後に隠れていた二羽の兎を指さした。
「この子たちの話だと、鈴仙様は嫌がるアリスに何かいかがわしいことをやっていたらしいじゃないですか!!」
「ぶッ!!」
 誤解を解こうと思った瞬間、てゐの言葉に私は吹き出してしまう。
 な、何よそれ、身に覚えのないことよ。
 無実の罪をきせられそうになったため、弁明しようとするが、障子の裏に隠れていた二羽の兎が恐る恐るとだが顔を出した。 
「私たち、寝る前に雨戸の見回りしていました」
 ちょっと気弱そうな子が意を決したように語りだす。
 そしてそれに続くように、もう一羽の勝気そうな子も喋りだした。
「そうしたら変な声が聞こえたから何かと思って覗いたの」
「暗くって何も見えなかったですけど、アリス様が何か止めるような声が聞こえました」
「そうしたら次第にアリス様の声が喘ぎ声が聞こえてきたの」
「私たち、すごいドキドキして、今の今までこの部屋の前で聞いてました」
 二羽はそう言って恥ずかしがるようにまた障子の裏に隠れてしまう。
 あまりにも強烈な内容に私は驚きで声が出ない。てゐは頬を紅潮させながらも、私に向き直る。
「これでも言い逃れができると思っているのですか!?」
「い、いや……あの……ちが……!」
 二羽の話を聞いてもまったく記憶にない。私はやっていないしそれは冤罪だ。だけどなぜかそれをすぐに否定することができず、言葉に詰まってしまう。
 どうみても状況は劣性、言い訳をするたびに私の印象が悪くなっていくことは確実だった。
「往生際が悪いですよ! こうなったら被害者に直接聞こうじゃないですか!! どうなの、アリス!?」
 そう言いながらてゐはまだ衣服が乱れたままのアリスへと問いかける。
 アリスはてゐの声に驚き体を大きく上下させたが、てゐのあまりにも真剣な目つきに気圧されたのか言葉を探すように語り始めた。
「……最初は、抱きしめてくるだけかと思ったんだけど、次第に鈴仙が私の体を触り始めて……だんだんエスカレートしてきて……止めたんだけど……鈴仙、聞いてくれなくって…………その……」
「こ、これでも言い逃れると思っているのですかぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!」
 話していくたびにアリスは顔を真っ赤にしながら指先をもじもじと絡ませ、言葉もボソボソと聞き取れないほど小さくなっていった。
 証言を聞いているだけで耳の先まで燃えるように熱くなってくる。
 さすがにてゐもそれ以上聞くに耐えれないと判断したのか、アリスの言葉を中断するように私へと叫んだ。
 だけど、私はアリスの証言を聞いている途中で頭は真っ白になりはじめ、私の一生がここで終了するのではないかと思える危機感を感じざるおえなかった。
 アリスの証言は私の記憶にまったく存在しない。しかし、アリスが嘘をつく理由はなく、他の兎たちの証言と一致する。ということは私は寝ぼけながらアリスにとんでもないことをしたことになる。
 終わった……………………。
 私は明日の陽の目……いや、今日の月を見る前に終わってしまうかもしれなかった。


     ☆


『鈴仙様がアリス様を襲った!!』
 そんな噂が一刻もしない内に永遠亭へと広まった。
 あっという間に私は永遠亭の兎たちから軽蔑の眼差しを向けられた。師匠にでさえ、場所を考えなさいよ、と怒られてしまった。
 いくら軽蔑の眼差しを向けられようと、説教を受けようと記憶にないことで言われるのは辛い。
 だけど私がやったことは本当のことと思えるので、何も言えないでいた。
 昨夜、あんないかがわしいことが朝まで続いていたらしいので、被害者のアリスは非常に寝不足となっていた。
 なので今は永遠亭の一室で就寝しているかと思われるが、私には判らない。
 なぜならその部屋の周辺をてゐたち兎が堅く護っており、私は近づくことさえままならない状況となっていた。
 どうやら私はアリスを襲った凶悪犯罪者らしい。
 完全に永遠亭内で孤立してしまったので、仕方なく早めに人間の里へ薬を売りに逃げるように出かけた。
 早く出かけたお蔭なのかは判らないが、珍しく早く薬が売り切れ、黄昏時になる前に永遠亭へと帰れそうではあるが、今朝のことがあるから帰路につくのが憂鬱である。
 しかし、永遠亭のこともあるが、アリスにはなんて言えばいいのだろうか。
 寝ていて記憶はないがアリスにとんでもない辱めを与えたのだ、簡単には許してくれないかもしれない。
 もしかしたら嫌われたかもしれない。そう考えると不安で押しつぶされそうになってくる。
 だけど私がやったのだから謝るしかない。とにかく誠心誠意謝ろう。許してもらえるまで頑張ろう。
 人間の里から永遠亭がある迷いの竹林までの道のりは、昨夜降った雪が積もっており、雪かきはされていないため非常に歩きにくかった。
 本当は飛んで帰ればよかったのだが、アリスや永遠亭のことを考えると足取りが重くなり、少しでも帰る時間を長引かせたかったから歩いて帰っている。
 雪が周囲の音を吸収し、変に落ち着く無音のような静寂。
 雪を踏む音だけが耳の中に入る。
「鈴仙」
 すると、雪を踏む音とは別に誰かの声が入ってくる。
 私はその声の主が誰だか判る。声は頭の上、空から聞こえてきた。
 私は顔を空に向けると、予想通りそこにはアリスがいた。
 いつもの可愛らしい洋服を身にまとい、まるで天女のように空から私の前に降り立った。
「鈴仙、今帰り?」
「う……うん、薬が早く売り切れたからね」
 アリスはいつものように私に話しかけてくる。今朝のことを考えるとてっきり私を見つけたとしても話しかけてこないかと思った。
 だが今の様子ではアリスは私を嫌っているようには見えない。良かった。
「アリス、帰るの?」
「ええ、すっかり眠らせてもらったからね。さすがにこれ以上いると申し訳ないし」
 微笑みながらアリスはいつもの口調で話す。
 まさかアリスは今朝のことを忘れているのではないだろうか、と思えるほどの平時と変わらない受け答えである。
 せっかくアリスに会ったのに、このまま何もなく会話を終了させるのはよくないと思い、私は意を決して今朝の話題を出す。
「えっと……アリス、ごめん」
「え?」
「今朝の……いや、昨日の夜かな……その……アリスに変なことしちゃって…………」
 言っているだけで恥ずかしさで気を失ってしまいそうになり、頭が自然と地面を向く。だけどしっかりと謝らなければ。
 そして何よりもそのことを覚えていないことも話して謝らなければ。
「あの……本当は……」
「鈴仙」
「え…………ッ!?」
 言葉を綴ろうとした時、アリスは私の名前を呼んだので、なんだろうと思い頭を上げた瞬間、彼女が私に抱きついてきたのだ。
 抱きつくアリスの頬と私の頬が触れ、彼女の体温を直に感じる。
 軟らかい胸が私の胸に当たり、トクトクと鳴るアリスの鼓動が静かに聞こえる。
 こんなにも冷えた銀世界なのに、私の体は急速に沸騰し始めた。
「あ、ああ、アリス!?」
 突然のことに呂律が回らなくなる。
 アリスに何かやられるたびに毎回動揺するが、いい加減慣れないとなぁ。
「ほら、暖かい」
 ポツリと、雪が広がる静寂の中でアリスは呟いた。
 周囲が無音のように静かだったのもあるが、アリスに抱きつかれたことによって私の神経は極限まで高められていたので、彼女の声ははっきりと何重にもなって聞こえた。
「昨日、こうやって鈴仙が抱きしめてくれた時、暖かかったわ。とっても気持ちよかったし、鈴仙と一緒になっている気持ちになって嬉しかった」
「アリス……」
「本当は私も抱きつきたかったんだけど、鈴仙の布団に入るまでが限界だったの。それ以上勇気がなかったから。だけど鈴仙から抱きしめてくれてありがとう」
 アリスが私の布団に入ってきた記憶まではある。だけど私から抱きしめた記憶なんてまったくない。
 ここまで来ると私の寝相が相当悪いとしか思えない。
 アリスはとても感謝しているようだが、身に覚えがないことに感謝されてもただ申し訳なくなるだけである。
「それから……」
 と、突然アリスの声が曇った。
 とても小さく周囲に聞こえないように私へと語りかけてくる。
 何事かと思った瞬間、彼女の口からとんでもない言葉が飛び出してきた。
「その……ああいうことがしたいのなら……今度から、私の家で言ってね……えっと……家なら邪魔が入らないし…………鈴仙の好きな風にしていいから…………」
「えッ!?」
 あまりにもとんでもない発言に私は目を見開いて、濁ったような低い声を漏らしながらアリスへと視線をやった。
 すると抱きついているアリスの表情は、今朝みた赤面した表情よりも、何倍も真っ赤に染まっており、まるでそういう肌をしているのではないかと思えるほど赤かった。
「な、なんでもない! じゃ、じゃあね、鈴仙!!」
 赤面したアリスはまるで逃げるように私から離れ、顔を見られたくないといった勢いで自宅がある方向へと飛んでいってしまった。
 あっという間に一人になってしまったが、私はそれどころではなかった。
 私はいったい、アリスに何をやったのよッ!!
 心の中でそう叫びながら、アリスのあの発言で私は頭を抱えることになってしまう。
 どうやら私はアリスに予想以上のことをやっていたようだが全然思い出すことができない。
 だけどアリスはそれを判っており、その行為をまたやってもいいと言ってきたのだ。
 しかし、思い出せない。
 何かとてつもなく重大なことをやってしまったのは判る。ものすごいもったいない気持ちになっているのも判る。
 だがやはり思い出せないッ!!
 本当に私がアリスに何かやったのかと疑いたくなるほどである。
 思い出せない苦悩に、何かとんでもないことをしてしまった事実が判り噴火してしまった頭を冷やすように私は足下に広がる雪の地面に顔面から飛び込むように倒れ込み、恥ずかしさで痒くなる全身を誤魔化すように転げ回った。




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