深々とした雨が幻想郷に降り注ぐ。
 草木を濡らし、土の上には水たまりを作る。
 湿る空気の匂いが鼻をつき、気分を暗くさせる。
 呉服屋の店先で雨雲が覆った空を見上げる。
 湿気で私の金色の髪が重たく感じる。
 赤いカチューシャの位置を直して、手櫛で髪を整える。
 正面の表通りでは無数の雨粒が地面を叩く。
 私と同じく空を見上げながら店先から出られない人間、濡れるのを覚悟して外を走る妖怪、などなどが周囲にいる。
 目の前を走り抜ける者がいると、私の真っ青なロングスカートや白の長袖、腰に巻いた桃色のフリルがついたリボン、肩にかける白いケープなどに泥が着かないか不安である。
 まぁそんな者が来たら私は呉服屋の中に戻るだけである。
 それにしても通りにいる者の姿は数名しかおらず、いつも人や妖怪がごった返す場所とはとても思えなかった。
 雨が降っていて濡れる可能性があるのに、わざわざ出てくる訳はないか。
 商売をしている者も、売り上げが下がるのが判っているのかこの雨空に不満を露わにしている。
 雨は本当に気分を億劫にさせる。
 雨が降って喜ぶ者もいるだろうけど、私は嫌である。
 陽が出ていないから暗い世界、雨音しか聞こえない周囲、肌寒い冷たい空気。
 なんとなく、寂しい気がする。
 周囲に人間や妖怪の姿が見えるけど、私しかいないような世界。
 雨が私を周囲から遮断しているような気分。
 こんな気分なら出かけなければ良かっただろうか。
 でも、布を補充しなければ人形用の衣装を作れなくなってしまうのでそれは避けたかった。
 購入した赤や青、白の柄が入った黒い布などを包装紙に包んで胸に抱えるように持つ。
 雨は布を濡らす。
 あまり生地を傷めたくはない。
 しかし、私は今傘を持ってはいない。
 別に忘れた訳ではない。
 私は魔法使いであり、魔法を使えば傘の代わりに雨を防ぐことが可能である。
 なので、傘というかさばる物を持ち歩く必要がなく、出かける時は便利である。
 早く帰ってしまおう。
「あれ、アリス?」
 雨よけの魔法を発動しようと手を挙げかけた時、透き通った鈴のような声が聞こえた。
 聞いたことのある声に、私は挙げた手を止めて、顔をそちらに向ける。
 朱色の番傘を差し、紺色のブレザーに白のカッターシャツと真紅のネクタイ、膝上までしかないスカートと黒いニーソックスの間から見える素足は細く色っぽくも見える。
 膝まで伸びた薄紫色の髪を靡かせ、頭から生えた二本の細長くシワの入った不自然な兎耳が番傘に当たっている。
 鮮血のように真っ赤な双眸を持ち、整った顔立ちはひと言で美人と言い表せる女性。
 膝くらいまでの大きさの薬箱を背負う月兎の鈴仙は、黒の革靴で泥を飛ばさないように歩き、微笑みながら私へと近づいてくる。
「あ……鈴仙」
 挙げた手を下げて彼女へと向き直る。
 まさか彼女に会うとは思っていなかった。
 彼女は私の大切な相手。
 お互い幻想郷の外からやってきているという共通点のお蔭か、よくお喋りすることが多い。
 そんな彼女はいつものように明るい笑顔で、店先に立ち止まっている私に向かって質問をする。
「どうしたの?」
「ちょっと買い物していてね……鈴仙は仕事帰り?」
「うん、だけど雨が降ってきたから早々に切り上げてきたんだ」
 彼女の仕事は薬売り。
 永遠亭で作られた薬を人間の里で売っている。
 彼女が売る薬は効き目抜群ということで、それなりに売れている。
 しかし、店を構えてはおらず露店となっているので、今日のように雨が降ってきたら早々に切り上げないといけないのだ。
 偶然とは言え、知り合いと出会えて気持ち嬉しくなる。
 雨が降っているから少し帰るのに迷っていたけど、こんなことになるとはなんとも幸運である。
 すると鈴仙が何かに気づいたように小さく頷いた。
「アリス、もしかして、傘がなくて困っている?」
「え……」
「良かったら、アリスの家まで送っていくけど」
 確かに私は傘を持っていない。
 それは間違いないのだが、傘の代わりになる魔法がある。
 直前までその魔法を使おうとしていたし。
 なので傘はないし、困ってもいない。
 そう言えば良いのだけど、なぜか言葉に詰まってしまう。
 判らないけど、何かに迷っている私。
 その何かは判らない。
 ただ、このまま真実を言ったらいけない気がする。
 だから、私は自然と言葉を発してしまう。
「あ……え、ええ、お願いするわ」
 嘘をついてしまう。
 本当は困っていないのに。
 一人でも帰れるはずなのに。
 嘘をついてしまった。
 迷惑ではないだろうか。
 送っていくということは、彼女は私の家まで来てくれるのだろう。
 雨で気が滅入っていたけど、これは少し楽しいことになりそうだ。
 彼女は私の正面まで来ると、肩に掛けていた傘を垂直に立て、一人分のスペースを作り、私が入れるようにしてくれた。
「うん、じゃあ私の隣に入って」
「うん……」
 私は鈴仙に言われるがまま、彼女の傘へと入る。
 ほんの数瞬前まで雨に濡れていた土をブーツ越しに感じる。
 そして何より、鈴仙との距離が目と鼻の先にまで近づいた。
 先ほどまで雨の香りしかしなかった。
 だけど今はそれ以外に、別の香りが鼻を擽る。
 薬独特の香りと髪から漂う花の香り。
 ああ、鈴仙の香りがする。
 彼女の香りを嗅げるほど近く、そして彼女の存在をまじまじと感じる。
 私より少し身長が高く、華奢だけど私よりスタイルが良い、何よりも見とれるようなほど美しくそしてカッコいい顔が目の前にある。
 まん丸な彼女の赤い瞳が私を見据える。
 それと同時に胸が一回、小さく鳴る。
 なんて綺麗な瞳なのだろうか。
「じゃあ、行こうか」
「うん…………」
 微笑みながら告げてくる鈴仙に、私は熱くなる顔を隠すように小さく頷く。
 彼女は特に気づいていないようで、ゆっくりとだが私の家に向かって歩き出す。
 私もそれに遅れないように彼女の歩幅に合わせる。
 雨に濡れないように傘の中へと体を収める。
 しかし、収めると肩が鈴仙の二の腕に当たる。
 彼女の柔らかい肌。
 彼女がこんなに近い場所にいる。
 傘や地面を雨粒が叩く音、湿った土を踏む音。
 色々な音が混ざり合い、そして消えていく。
 だけど、それ以外に私の鼓動の音が酷く大きく聞こえてきた。
 なぜだろう、なんでこんなに胸が高鳴るのだろう。
 反射的に彼女の体が当たらないように少し距離をあける。
 すると離れた分だけ、体が傘の外に出てしまい雨粒が服越しに叩かれる。
 濡れてしまうけど、この胸の高鳴りを収められるのならこれぐらい安い物だ。
 そんな風に安心すると、鈴仙の腕が再び私の肩に触れる。
 そして鼓動も弾けそうなほど高鳴る。
 え、何、なんで鈴仙が近づくの。
 動揺で言葉が頭の中でぐるぐる回る。
 すると鈴仙がこんな雨雲の暗い世界なのに、太陽の下で美しく咲く花のような笑顔を作る。
「アリス、もっとこっちに来ないと濡れちゃうよ」
「え……うん……」
 何一つ濁りのない美しい笑顔。
 彼女は純粋な優しさで言ってくれるのだろうけど、私の胸の鼓動は止まらない。
 また離れても、きっと彼女はまた近づいてくる。
 だから私は今の状況でずっと歩き続けるしかない。
 離れていないけど、密接はしていない。
 それでも彼女の柔らかさと温もりを感じる。
 雨が地面を濡らし、空気を湿らせていて肌寒いはずなのに、彼女と触れている部分が暖かかった。
 もっと彼女に触れたい。
 もっと彼女を感じたい。
 そう願うのはわがままだろうか。
 静かな世界を二人で歩く。
 人間の里の賑やかな気配も遠くなり、雨に葉や木を濡らす森の中へと歩を進める。
 周囲に誰の気配もなく、私たち二人だけ。
 まるで永遠のような時間。
 彼女と一緒の時間。
 もっと彼女と一緒にいたい。
 もっと彼女に触れていたい。
 そんな思いが私の中を縦横無尽に動く。
「あ……アリス?」
 突然、鈴仙が動揺した声を漏らした。
 明らかに奇妙な声色に私の意識が戻り、彼女へと顔を向ける。
 すると歩くのを止めて鈴仙が頬を紅潮させながら、驚いたように私を見ていた。
 なんだろうと思ったけど、すぐに判った。
 傘を持つ彼女の腕に、私は自身の腕を絡ませているではないか。
 まったく記憶のないこの状況。
 私は目を見開いて驚く。
 まさか、彼女に触れたいという思いが先走ってこんなことをしてしまったのだろうか。
 どれだけ強い思いなのだろうか。
 しかも腕を絡ませながら、買った布をくるんだ紙をしっかりと持っている。
 とにかくこれは状況がまずい。
 鈴仙が困っているではないか。
 でも離したくないな。
 もっと彼女の温もりを感じたいな。
「れ、鈴仙……」
「……な、何、アリス?」
 緊張で声が震える。
 彼女も動揺しているのか、同じく声が震えている。
 やっぱりこの状況に迷惑しているのだろうか。
 ああ、私はなんて酷いことをしているのだろうか。
 彼女が困っているのに動くことができない。
 私は恐る恐る彼女に問いかける。
「め、迷惑?」
「迷惑な訳ないよ! むしろ、うれ……なんでもない……」
 鈴仙は言いかけて慌てて言葉を飲み込んだ。
 何を言いかけたか判らないけど、彼女の言葉を聞いて胸をなで下ろす。
 良かった、鈴仙は迷惑とは思っていないようだ。
 迷惑ではないのなら、腕を絡ませていても大丈夫だろう、うん、きっとそうだ。
 顔が真っ赤になっているのが判るほど熱くなり、胸の鼓動も高まりながら、私は彼女に問いかける。
「じゃあ、暫くこのままでいて良いかな……」
「え!? も、もちろん良いよ!」
 一瞬私の言葉で驚いた鈴仙だが、即答で許可してくれた。
 若干、彼女の赤い瞳が血走っているように見えたが気のせいだろう。
 元々赤色だし。
 許可してくれたのだから、もっと彼女に触れよう。
 彼女の細い腕をしっかりと抱きしめると、彼女の温もりを感じる。
 ああ、鈴仙に触れている。
 その事実が私の気持ちを高まらせる。
 胸の鼓動が早くなり、全身に奇妙な感覚が巡る。
 もっと彼女を感じたい。
 だから私は彼女の腕にもっと体を近づける。
 すると、近づきすぎたのか鈴仙は顔を赤くしながら再び私へと言葉を告げる。
「アリス……む、胸が当たって……」
「あ……」
 いつの間にか彼女の腕に私の胸を押しつけていた。
 少し近づきすぎただろうか。
 しかし、彼女の表情を見てみると嫌がっている訳ではないようだ。
 むしろ喜んでいるようにも見えるけど……。
 そういえば、私は彼女に触れていたいけど、彼女は私に触れたいと思っているのだろうか。
 胸が当たっていることを指摘するということは、意識をしていると捉えられる。
 一度気になると聞かずにはいられない。
 私は顔を赤くする鈴仙に静かに問いかける。
「胸に触りたいの?」
「うん……そりゃあ、触りたいけど…………えぇッ!?」
 彼女が本音を漏らした後、少し間があってから声を裏返させ、体を小さく上下に揺らして驚いた。
 私は何を言っているのだろうか。
 ただ触りたいか聞くはずなのに、なんで胸という単語をつけてしまったのだろうか。
 明らかに彼女は私が胸を触りたいか突然聞いてきて驚いている。
 彼女が驚くのは当たり前だ。というか誰が言われても驚くに決まっている。
 だけど、一瞬聞こえた彼女の本音のような言葉。
 流れるような問いと答えだったから、勢いで答えてしまっただけなのかもしれない。
 もしかして、彼女は本当に私の胸に触れたいのだろうか。
 別にそんな自慢できるような胸ではないし、鈴仙のほうが綺麗で大きいと思う。
 こんな体で良ければ触らせてあげるのだけど。
 女性同士だし、鈴仙なら私は全然構わない。
「い、いや! 別にそういう疚しいことじゃなくて、その、あの、えっと……」
 酷く狼狽したように言い訳をするけど、言葉が見つからないようで視線が四方八方に飛んでいる。
 もしかして、変なことを言ったと思って誤魔化そうとしているのかな。
 もっと正直になってくれれば良いのに。
 長いつき合いなのだから、私には素直になってほしい。
 そんな思いが私の唇を自然と動かしてしまう。
「鈴仙が触りたいのなら、私は良いよ」
「…………!?」
 言ってしまった後に気づいたけど、私は何を言っているのだろうか。
 彼女が私の胸を触りたいなんて確証がないのに。
 そんなことを言ったら彼女に引かれるに決まっている。
 それなのに、なぜか言葉は止まらなかった。
 胸が弾けそうなほど高鳴り、意識が遠のきそうなほど緊張してくる。
 彼女に拒絶されるかと思った。
 だけど彼女は何も言わなかった。
 鈴仙は目を見開いて、瞳と同じくらいに顔を真っ赤にしながら、口をパクパクさせている。
 その表情を見ていると私も彼女の顔をこれ以上まともに見ることはできず、俯いてしまう。
 胸が高鳴り呼吸が荒くなる。
 苦しいはずなのに、私はこのひと時が幸せに感じた。
 彼女も迷惑に思うかもしれないけど、この時間が永遠に続かないだろうか。
 でも、家に帰ったら何かあるかもしれなかった。
 彼女は何かやってくるだろうか。
 もしかしたら何もしてこないかもしれない。
 奥手で私の想像する大胆なことはできないはず。
 そんな彼女が可愛い。
 本当に幸せである。
 いつまでも、彼女の傍にいたい。
 雨粒はまだ傘や地面を叩いている。
 きっとまだまだ止むことはないだろう。
 肌寒い湿った空気。
 だけど火照った体は関係ないように熱くなる。
 もう少し雨が降って、気温を下げてくれないだろうか。
 そうしないと、私が倒れてしまいそうだ。
 そんな思いが雨音の中に消えていく。
 しばらくの間、私たちはその場を動けなかった。




 もしよかったら感想をどうぞ。


前のページに戻る


TOPへ戻る