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 何もせずにも背中が汗ばみ、額に汗が浮き出る盛夏。
 梅雨が過ぎ去って湿った暑さは去ったが、暑いことには変わりがない幻想郷の環境。
 私――アリス・マーガトロイドの住む家がある場所も例外もなく暑かった。
 魔法の森と呼ばれる森には化け物茸が放つ胞子や瘴気が満ち、鬱然と生い茂る背の高い木々が陽の光を遮っている。
 私の家はそんな森の中にあるのだけど、一応胞子や瘴気が来ないように魔法で防いではいるから住むのには問題はない。
 いつもは風も通り抜けてある程度は快適な住居になっているのだけど、今日はなぜか風がまったくと言って良いほどない。
 日差しを入れるために背の高い周囲の木を伐ったのが裏目に出てしまい、焼けるような日差しが家を照らし、屋内ということで四方を壁に挟まれ、中が外より暑いような状況。
 家の窓という窓や、ドアというドアを開放し、少しでも風通しを良くしようと試みた。
 しかし、皆無としか言いようがない。
 やる気、体力、思考、ありとあらゆる物を奪う熱気に私は動くことさえ億劫に思えて仕方がない。
 蝉さえ寄りつかない魔法の森はそれはもう静かで静かで、まるでこの灼熱地獄の中で時が止まっているのではないかと思えるほどである。
 純白の遮光カーテンがそよ風に揺られ、生地が擦れる音を微かに響かせる。
 風は入ってきているだろうが、私にはまったく伝わってこない。
 ソファーに体を預けて全身を脱力しながら陽が沈むのを待つが、私の体が持つかどうか。
「暑い…………」
 素直な愚痴が口から漏れてしまう。
 だが、それで気温が変化する訳もなく余計暑くなってきたかのように思える。
 誰も私の言葉に返答することもないので、孤独は増してくるばかりだ。
 私は一応魔法使いをやっている。
 風や氷を発生させる魔法でも使えたら涼しいのだけど、私は人形を操る魔法がメインなので自然を操る魔法は不得意である。
 こういう時に湖の近くの真紅の館に住む、友達の魔法使いが羨ましく思う。
 うーん、きっと彼女のことだから住んでいる館中を、年中快適な空間に作り替えているに違いない。
 遊びに行こうかしら。
 でも、外に出るのは日差しが強いし嫌だな。
 それにただ涼みに行くのも彼女に迷惑だろう。
 今日は家で静かにすごそう。
 そんなことを思いながら体を横にして、ソファーをベッドの代わりに使用する。
 眠れば時間が過ぎるだろうか。
 そう思いながら瞼を静かに閉じる。
 無心になって眠ってみる。
 次に目が覚めたら夜になっていて涼しくなっているはず……。
 いや、むしろなっていてくれないと困る。
 汗が止めどなく流れ出してくるし、蒸し暑い。
 ああそうか、蒸し暑いから眠れないのだろう。
 それなら少しでも涼しくなれば眠れるかもしれない。
 私は履いていた茶色のローファーや真っ白なソックスを脱ぎ捨て、晴天の青空のように真っ青なベストのボタンを全て外し、その下の白のカッターシャツのボタンも何個か外した後、ベストと同じ青のフレアースカートをめくり、素足を外気に触れさせる。
 胸の下着が露わになり、横になっていてよく見えないけど、ショーツも露わになっている感覚。
 他の者が見たらなんてはしたない格好だろうか。
 今はそんなことは気にならないほど、早くこの暑さをなんとかしたい。
 暑くて暑くてたまらない。
 何より、私が今家の中に一人ということもたまらない。
 この暑さを他人と分かつことができない。
 誰かがいるような環境音もない。
 孤独をより濃く感じさせられる。
 一人でこの暑さに悶えているのは耐えられなかった。
 誰か訪ねて来てくれないだろうかと期待はしている。
 しかし、こんな暑い日にわざわざ好き好んで訪ねてくる者なんていないだろうに。
 だからこんなにも淫らな格好をしながら居眠りしようという考えに至ったのだ。
 ふと、暑さで沸騰している頭の中を、友達の月兎の姿が横切る。
 私が寂しいと思った時にやってきてくれる。
 真面目で少し控えめだけど、私なんかよりずっと綺麗な兎。
 大切な大切な、私の可愛い友達。
 でも、彼女もきっとこんな日にはやってこないだろう。
 暑いし、来ても全く涼めないし、彼女にはなんの利点もない。
 外に出る気力もないだろうし、もしかしたら私と同じで自宅である永遠亭で暑さに苦しんでいるかもしれない。
 いつでも会えるし、今日ぐらいは大丈夫だよね。
 大丈夫だよね……。
 そう思うと、急に胸が苦しくなった。
 彼女に会いたい。
 そんな気持ちが強くなる。
 寂しい。
 話がしたい。
 視線はただ真っ直ぐ向けるが、視界に何も入ってこない。
 いくら思っても何も変わらない。
 無駄な願い。
 気を紛らわすように瞼を閉じる。
 涼しくなれば彼女が来てくれるし、私が訪ねれば良い。
 汗ばむ体や孤独を誤魔化すように眠ることに集中する。
 真っ暗で何も見えない世界で、ソファーの柔らかい生地を全身で感じる。
 風が遮光カーテンを揺らす音が聞こえるが、いつまで経っても風はまだ私の体を撫でてはくれない。
 ちょっとは気を利かせなさいよ。
 文句を思いながら静かに私は眠りに落ちるのを待った。


     ☆


 風を切り、細長い二本の兎耳を揺らしながら空を飛べば、こんな真夏日でもある程度は涼しくなると考えた。
 月兎の私――鈴仙・優曇華院・イナバはなんて頭が良いのだろうか、と自画自賛してしまった。
 きっと暑さで頭がいかれていたのだろう。
 そんな考えは気休めにしかならなかったのだから。
 上空は地上と違って照り返しがなく、飛行すれば風が突風のように私の体を撫でてくるから、気温が低いに違いないと踏んでいた。
 しかし、実際はそれに負けないくらい日差しが強く、日焼け止めを塗った顔や腕、脚をじりじりと焼いてきて暑いことこの上なかった。
 お土産で買った紅茶の葉っぱも、ダメになってしまうのではないだろうかと思えるほど暑い。
 白のカッターシャツの袖を捲り、少しでも外気を肌に触らせ体温を下げようとしても変化は皆無。
 はしたないけどネクタイを緩め、カッターシャツのボタンを二個外しラフな格好にする。胸の肌と下着が少し見える。
 これ以上外すと下着を隠すことができないので、ここはこれで暑さを我慢するしかない。
 どうせアリスの家についたら身だしなみを整えないといけないし、一時凌ぎ程度である。
 だって、こんな格好でアリスに会う訳にもいかないし。
 ああ、早くアリスに会いたいな。
 この暑さを紛らわせそうなハーブの紅茶の葉を買ってみたけど、彼女は喜ぶだろうか。
 暑いのに紅茶ってのはダメだっただろうか。
 あ、でもアイスティーっていう冷たい紅茶を作ってくれるだろう。
 ふと、地上の風景が変化し、鬱蒼と生い茂る森が姿を現した。
 上空からは森の中がまったく見えないほど木々が密集している。
 同じような風景が続いている。
 魔法の森である。
 いつ見ても森の中はどうなっているか判らない。
 暑いのか、涼しいのか見当がつかない。
 そんな謎の森の上を通過する。
 すると、一ヶ所だけ開けた場所が見えてきた。
 鋏で切り取られたかのように、円形に木々がまったく存在していない空間があり、その中央には小さな可愛らしい洋館が建っている。
 御伽話のようなアンティークの窓や扉、綺麗に手入れされた芝生、最近塗り直した白塗りの壁、雨や雪が貯まらないようにしてある三角で屋根。
 何度も何度も見て、もう見慣れてしまったアリスの自宅。
 私はその建物が目に入った瞬間、気持ちが楽しくなり、急ぐように別世界のような空間へと向かう。
 空間の地面へと脚をつけるが、予想通りに上空と比べて照り返しが強い。
 風もまったく吹いていないため、すぐさま額や背中が汗ばんでくる。
 あまり長居をしたくはないが、ここで帰ったら意味が全くない。
 アリス邸は窓が開け放たれており、入口の扉も半開きになっているので、どうやら留守ではないようだ。
 無駄足にならず、とりあえず胸をなで下ろす。
 でも、窓や扉を開けはなっているということは屋内も相当暑いのだろう。
 こんな暑い日に訪ねてくるのは迷惑だっただろうかと、半開きになっている木製の洒落た扉を前にして思いついてしまう。
 ここまで来たら後には退けないし、もしかしたら彼女は私が訪ねてきたことに既に気づいているかもしれない。
 外したボタンを再び戻そうとするが、予想通りに暑いためその行為をしても良いのか迷ってしまう。
 少しでも涼しい状態を続けたい。
 胸周りを見せるのはあまりよくないと思うから、袖を捲ったまま、ボタンは一個だけ戻し、ネクタイは緩めたままにする。
 大きく一回息を吸うと、空気が流れ込んできたので口の中が一瞬冷える。
 だが、吐くと同時に冷たい空気も消え、なま暖かい息が口の中から外に出てきた。
 気合いを入れて扉を軽く叩き、
「アリス、私だけど……いる?」
 呼びかける。
 ……………………。
 …………。
 ……。
 しかし、反応がない。
 いないのだろうか。
 いや、だけど窓や扉が開け放たれているのだ、アリスがそんな不用心な状態で出かける訳がない。
 まさか泥棒だろうか。
 だけど、中から物音は聞こえない。
 私の声に気づいて潜んでいるのだろうか。
 ならば捕まえなければいけない。
 私は物音をたてないように半開きの扉に手をかけ、静かに開けながら屋内をのぞき込む。
 もしかしたら泥棒が入口で待ち伏せをしている可能性もあるので、ここは慎重にいかなければならない。
 視線を巡らせる。
 玄関を入ってすぐに居間のような広い場所が見える。
 視界の右側にはポットが火の消えた焜炉の上に置かれており、前に使ってから暫く経過しているようにも思える台所。
 台所の傍にあるテーブルには、水玉模様のテーブルクロスが敷かれ、その上にはこの暑さにも負けないくらい瑞々しく咲いている白い花がいけられている花瓶があった。
 食器棚のガラス越しには綺麗に収納されている食器が見え、アリスの几帳面さが判る。
 私の視界には遮光カーテンがそよ風に揺れているぐらいしか、動く物は捉えられない。
 その窓の近くには私に背中を向けているソファーや、ガラスで作られたお洒落で私の膝下の高さしかないテーブルも、いつも見ている配置と変わりがない。
 唯一違うと言えば、ガラスのテーブルの上にアリスとよくいる人形――真っ赤な大きなリボンを後頭部につけた上海人形がソファーのほうを見ながら置かれているぐらいである。
 木目の床は塵一つ見えないほど、綺麗に掃除されており、明らかに荒らされていたり、誰かが侵入したような気配はない。
 そうだよね、泥棒なんてそう簡単には入らないよね。
 それにここは化け物茸の胞子や瘴気が立ちこめる森の中なので、普通の泥棒がやってくる訳はない。
 暑さで私の思考が少し変になっているのだろう。
 変なことを考え、緊張の糸を張らした行為が徒労に終わってしまった。
 しかし……上海がいるってことは、アリスはやはりいるのだろうか。
 だけど、先ほど呼びかけたがなんの反応もなかった。
 もしかして家の奥の自室にでもいるのだろうか。
 とりあえず、泥棒の可能性が消えた訳でもないので、アリスの姿を確認するまでは帰ることはできない。
 私は家の中に歩を進め、玄関の扉を入る前と同じく半開きの状態へと戻す。
 足音をたてないように、抜き足、差し足、忍び足で周囲を警戒しながらゆっくりと奥へと進む。
 やはりいるならこの奥の自室だろう。
 なんか私が泥棒になっているような気分だが、本当に泥棒がいる可能性だってあるのだから仕方がない。
 うん、仕方がないよね。
 アリスだって判ってくれるはず。
 たぶん…………。
 恐らく…………。
 うーん…………。
 まぁ……大丈夫だろう。
 私の疑問に答えてくれる者は誰もいないので、自分で勝手に納得してさらに進む。
 そうしないとアリスに申し訳なくなり心が痛むから。
 だって、家主のいないかもしれない家の中を物音たてずに歩くのだ、普段体験できない行為に胸をときめかせてしまい何があるか探索もしてみたいと思ってしまったから。
 アリスの家の中。
 結構遊びに来ているけど、興味がある物は山ほどある。
 それにもしかしたらアリスが隠しているような物も……。
 例えば、その……いやらしい物……とか……。
 ああっ! 私はなんてことを考えているのだ!
 友達に対してそんなことを思うなんて!
 それにアリスは真面目な性格なのだから、そんな物がある訳がない。
 いや、でも、真面目な者ほど欲求不満っていうことも聞いたことがあるし……。
 屋内を完璧に探した訳でもないので、はっきりとは言い切れない。
 もしかしたら、ある……かも……。
 アリスがそんな物を持っている姿を想像できない。
 だけど、私の頭の中では知っている限りの知識が集まりだし、勝手な妄想ができあがってしまう。
 誰もいない部屋で、アリスがそういう物を持って、ベッドの上で…………ああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!
 私のバカバカバカバカバカッ!!
 友達に対してなんてことを!!
 変なことを考えてしまったので動悸が急激に激しくなり、ただでさえ暑いのに全身から汗が流れ出る。
 額の汗を拭い、邪念を振り払う。
 頬を叩いて痛みで意識を戻す。
 叩く度に音が響き、じんわりと痛みが広がる。
 強く叩きすぎた。痛い。
 遮光カーテンがそよ風に揺られる。
 その時、爽やかな香りが鼻を擽る。
 なんの匂いだろうかと、位置を探る。
 一応私は妖怪だけど兎という動物でもある。
 鼻が利くので、おおよその位置は判る。
 それは私に背中を見せるソファーからだった。
 首を捻りながら私は静かに近づく。
 上からのぞき込むようにソファーから香る匂いの正体を確認する。
「――――ッ!?」
 正体が目に入った瞬間、私は危なく声を漏らしそうになるが、口の中に溜まった唾液を飲み込むように、言葉を喉から出さないようにする。
 目を見開き、息が詰まるほど動揺してしまう。
 ソファーからした香りの正体はアリスであった。
 どうやら眠っているようで、私が近づいても瞼を上げる様子はなく、静かに寝息をたてていた。
 やはり暑いのか額にはじんわりと汗の粒が浮き出ており、寝苦しそうな表情もしている。
 それだけなら問題はない。
 それだけなら、私が驚く理由にはならない。
 私が驚いたのはそんなことではない。
 だって…………だって…………。
 そう思いながら私は眠るアリスにもう一度視線をまじまじと向ける。
 ソファーで横になっているアリスは、ベストのボタンを全て外し、さらにはその下の白色のカッターシャツのボタンもほとんど外しているではないか。
 下着が隠されることなくさらけ出され、水色のフリルがついたブラジャーがアリスの乳房を護っている。
 さらにはスカートも捲り上げているので、彼女の粉雪のように白く、無駄な肉がついていないほどほっそりとした美脚が隠されておらず、こちらの下着も丸見えであった。
 普段見れないような姿でアリスが眠っているのだ、ここで驚かずにいつ驚くのだろうか。
 口から心臓が飛び出るというのはこのことか。
 しかし、ソファーに眠るアリスはまるで絵のように美しい。
 ソファーでは脚を伸ばして眠れないため、少し膝を抱き寄せるように横になっており、花なんかを添えたらきっとこの暑さでも長時間眺めることができるだろう。
 汗ばむ胸や脚はいつも以上に色気を感じさせ、湿った肌は瑞々しく見えた。
 普段彼女はあまり肌を出さないような衣服を身に纏っているので、今のようにはだけている姿は言ってしまうと官能的とも言える。
 ハッ、と彼女の全身を舐めるように見ていたことに気づき、慌てて顔を上げて揺れる遮光カーテンへと視線を向ける。
 友達に対して私は本当に最低なことばかり考えてしまう。しかもまじまじと観察をしてしまうなんて。
 でも、アリスは寝ているし、滅多に見れない姿でもある。
 彼女が目を覚ましてしまう前にもっと見たい気持ちでもある。
 だけど、それはただの変態でしかない。
 友達だからって許されるような行為ではない。
 もしかしたら嫌われてしまうかもしれない。
 それでも私は彼女を見たいという欲望を抑えられない。
 こんなチャンスはもう二度と訪れないかもしれない。
 ここで逃げるのはいけないような気がする。
 私の心の中で悪意が囁きだした。
 善意の言葉がまったく聞こえず、欲望に従え、というような言葉しか聞こえてこない。
 そうだ……アリスに気づかれなければ良いんだ。
 アリスは気持ちよさそうに寝ているし、見ているだけなら物音も鳴らないから結構眺められるはずだ。
 もし起きたとしても、今訪ねて来たように言って、衣服が乱れていることを指摘すれば問題はない。
 そうよ、完璧よ。
 これならばアリスの素肌を眺めることができる。
 悪魔が私の意識を支配した瞬間、視界を遮光カーテンから下に向ける。
 すると先ほどと変わらない姿で眠っているアリス。
 ああ、可愛い、綺麗、そんな言葉が頭の中で反響する。
 お姫様のような優雅な寝姿。
 見ているだけで胸が激しく高鳴る。
 私とは大きく違う華奢な体。
 この肌はどんなに柔らかいのだろうか。
 お餅のように柔らかいのだろうか。
 彼女の胸や太股もどんな感触なんだろうか。
 気になる。触ってみたい。
 やっぱり柔らかいよね。
 私とは違う柔らかさなのだろう。
 ああ、触りたい。
 でも、触ったら流石に起きてしまうだろう。
 それでもこの欲求が抑えられない。
 思えば思うほど胸の高鳴りが激しくなる。
 他のことが考えられなくなる。
 触りたい、触りたい、触りたい。
 視界がはっきりとしなくなる。
 だけど、腕がまっすぐとアリスへと向かう。
 呼吸が激しくなる。
 汗が噴き出す量も倍増する。
 大粒の汗が頬を伝う。
 触りたい。だけどアリスが起きないだろうか。
 もしこの状況を見られたら嫌われてしまう。
 汚い物を見るような視線を向けられる。
 それでもこの欲求が止められない。
 彼女に気づかれなかったら、私は彼女の肌に触れられる可能性があるのだ。
 気づかれなければ良い。
 気づかれなければ、何をやったって良いはずだ。
 まるで時が止まっているかと思えるほど、ゆっくりとアリスの胸へと手を伸ばす。
 指先に神経が集中する。
 後少し、後少しで触れられる。
「う……ん…………」
「――――――――ッッッッッ!!!!」
 その声がアリスの口から出てくるのが一秒でも遅れたら、私は彼女の胸に触れていただろう。
 アリスが声を漏らした瞬間、心臓が止まったかと思えるほど全身に寒気が走った。
 意識を失うかと思えるほど驚き、悲鳴にならない声を上げる。
 跳び退くように腕を引き、腕や脚が石のように硬直してしまう。
 危なく越えてはならない一線を越えるところだった。
 まるで全力疾走したかと思えるほど、心臓が高鳴り汗が止めどなく吹き出す。
 アリスから視線を外すことができない。
 いつ彼女が瞼を上げるか。
 いつ私のことを見るのか。
 だけど、いつまで待っても彼女が目を覚ますことはなく、再び静かに寝息をたて始める。
 結構な時間が経過したと思ったけど、本当に時が動いているのか怪しいほど私は動揺している。
 とりあえず起きる気配がないので胸をなで下ろす。
 先ほどまでやろうとしていたこと思いだし、背筋に寒気が走った。
 もうこれは変態ではなく犯罪者になるところだった。
 友達の体を邪な心を持ちながら触れようとしていたなんて、彼女に謝っても謝りきれない。
 本当にごめん、欲望を抑えられない私が情けない。
 若干残念な気持ちが生まれる。
 だけど、すぐにその気持ちをかき消す。
 もっと冷静に立ち回らなければいけないな。
 私はアリス邸へ入る前にやった深呼吸をもう一度丁寧に行う。
 冷えた空気を吸い、生ぬるい息を吐く。
 何度かそれを繰り返すと、自然と気持ちが落ち着いてきた。
 冷静になればなるほど、先ほどの自分の行為が恥ずかしくなる。
 この暑さで本当に頭がやられてしまったようだ。
 アリスが起きるまで反省するしかない。
 しかし、いつまで彼女は寝ているのだろうか。
 とても気持ちよさそうに眠っているし、起こすのには忍びない。
 もしかしたら眠ってすぐの可能性もあるし、夜まで眠ったままかもしれない。
 せめてひと言伝えたいから、待つだけ待ってみることにしよう。
 先ほどからアリスの肌ばかりに視線が行っていて気づかなかったけど、ソファーの周りには脱ぎ捨てられたローファーが転がっていた。
 睡眠中に暑いからって脱ぎ捨てたように思える。
 私は彼女を起こさないように移動して、その散らばっているローファーを揃えると、アリスの体とソファーの間に同じく脱ぎ捨てられたソックスが二足挟まっているのに気づく。
 やっぱりアリスも暑いんだろうか。
 寝苦しそうにも見えるし、実際に屋内も暑い。
 なんとか彼女が寝やすいようにはできないだろうか。
 だけど、この状況で涼しくできる方法なんて団扇で仰ぐぐらいしか思いつかない。
 それに肌をさらけ出している姿も暑いからと言って続けていたら風邪を引いてしまう可能性がある。
 何か薄い生地の布団をかけたほうが良いだろう。
 お土産で買ってきた紅茶の葉が入った袋を、ガラスのテーブルに座る上海の横に置く。
 暑さに苦しみながら眠るアリスを一瞥した後、私は彼女の寝室へと向かうことにした。
 恐らく寝室なら何かしらの布団があるだろう。
 家主が寝ているのに家の中を漁るのは気が引ける。
 しかし、その家主のことを思ってなのだから大丈夫だろう。
 それにアリスも判ってくれるだろうし。
 すると先ほどまで存在が皆無と思えた風が、遮光カーテンを大きく揺らし、冷たい空気が私の肌を撫でる。
 このまま気温が下がったら確実に彼女は体調を崩してしまうに違いない。
 私は何かあったらその時にでも考えようと思い、足音をたてずに移動する。
 この居間の奥には扉が一つあり、その扉を開けると開放されている窓から入り込む陽の光りで、明るく照らされる廊下がある。
 廊下を進むといくつか扉が目に入った。
 一番奥にある扉の前には木のプレートがかけられており、そこには小さくデフォルメされたアリスがベッドに入って眠っている絵が描かれている。
 この扉の先がアリスの寝室。
 下手に文字で描かれるより何倍も判りやすい。
 寝室の入口の横には小さな長足のテーブルが置かれており、居間と同じ花が花瓶にいけられていた。
 こんな暑いのに花は本当に元気そうだ。
 表情がないだけで苦しんでいるのではないかと思えた。
 しかし、一瞬考えてみたけどこの花はとても苦しんでいるようには思えなかった。
 花って丈夫なんだな、と感心してしまう。
 廊下は壁に囲まれているせいか、アリスが眠っている居間より風通しが悪く暑く感じられる。
 さっさと布団を探してしまおう。
 暑いし、汗が止まらない。
 アリスの寝室に勝手に入ってしまうのは気が引ける。
 だけど布団だけを探して早々に退室すれば大丈夫。
 衣装箪笥とかを漁りたい気持ちもあるけど、そうしたらきっと先ほどと同じような暴走をしてしまうだろう。
 自分を制御できないなんて本当に情けない。
 深くため息を吐いて、私はドアノブを回す。


     ☆


 深く眠りの底に落ちていた意識が覚醒する。
 瞼を上げ、はっきりとしない視界で周囲を見回す。
 ああ、どうやら私は眠ってしまったようだ。
 背中や額から汗がにじみ出て、衣服が湿っている。
 記憶の限り、寝る前とあまり室温が変わっているとは思えなかった。
 だけど、遮光カーテンが揺れて外から風が吹き込み、私の暖まった体を優しく撫でる。
 どうやら風は寝る前と比べて吹き出してきたようだ。
 それだけでもかなり救いである。
 なま暖かい風だけど、無風よりは何倍もましである。
 眠気でまだ重たい体に鞭を打ってソファーに座り直す。
 ふと、自分の衣服が乱れていることに気づく。
 ベストのボタンが全て外れ、その下のカッターシャツのボタンもほぼ外れているため下着が露わになっており、スカートも捲れて太股が丸見えである。
 なんて姿で寝ていたのだろうか。
 そう言えば暑いからって脱いでいたような、縫いでなかったような。
 寝起きで記憶が曖昧である。
 もし誰か訪ねて来たら恥ずかしい姿を見られるところであった。
 だけどこんな暑い日にわざわざ訪ねて来る者もそういないだろう。
 とりあえず胸をこのままさらけ出しておくのはまずいので、カッターシャツのボタンを眠気でおぼつかない手先で止める。
 さすがに全てのボタンを止めたら暑いので、胸が少し出てしまうが何個か外しておこう。
 先ほどよりは暑くなってしまうけど、だらしなくはないので問題はない。

 ――――――――。

 ふと、微かな音が耳に入ってくる。
 聞き逃しそうなほど小さな小さな音。
 一瞬、気のせいかと思ってしまったけど、今まで眠っていたのだから状況が判らない。
 家の中に誰かがいるような物音。
 誰も来ないと思っていたが、泥棒が入ってきた可能性が出てきた。
 暑いからと言って窓や扉を開放していたのがまずかったか……。
 化け物茸が生える魔法の森は天然の防犯対策になっていたと思っていた。
 しかし、その考えは甘かったようだった。
 耳を澄ませると物音が再び聞こえてきた。
 やはり誰かいるようだ。
 誰だろうか。
 そんなの泥棒に決まっている。
 私の知人だったら何かしらひと言話しかけてくはずである。
 それがないと言うことは、きっと泥棒なのだろう。
 私の家に侵入するとは良い度胸である。
 目にもの見せてやる。
 ガラスのテーブルに座っている上海人形へと指を向ける。
 ん、なんだろう、これ?
 眠るように座り上海の隣に何か紙袋が置かれている。
 寝る前の記憶ではなかったように思えるが、置かれているということは私が置いたのだろうか。
 記憶がはっきりと思い出せないのでなんとも言えないけど、恐らくそうだろう。
 私は差ほど考えず、普通の者の目には見えない特殊な糸を魔法で作り、上海へと接続させる。
 すると上海は命が吹き込まれたように顔を上げ私にそのつぶらな瞳を向け、力なく座っていた体を起こして宙に浮く。
 目の前に浮いて待機する上海へは目を向けず、私は脱ぎ捨てたと思えるローファーを探すと、ソファーの横に綺麗に並べられて置かれているのを見つける。
 あら、てっきり脱ぎ散らかしていたかと思っていたけど、意外にちゃんとしていた。
 ソックスを履いている暇はないので、素足のままローファーを履くが、足裏にざらざらとした違和感が伝わってくる。
 うう、さっさと終わらせてちゃんとソックスを履きたい。
 なんで私がこんなことに……泥棒め、許さない。
 平穏な一日を邪魔され、さらにこの暑さが組み合わさり、私は相当不機嫌になる。
 ローファーを履いた後、ソファーから立ち上がり傍らに浮かぶ上海に目をやる。
「――――」
 泥棒に気づかれないよう小声で呪文を唱える。
 すると上海の前に青色の魔法陣が浮かび上がる。
 そしてそこから一本の剣が出現すると、上海が小さな手で剣の柄を握る。
 剣の大きさは上海よりも長く分厚い刃が窓から侵入してくる陽の光りに照らされ、銀色のボディーを輝かせる。
 強盗は武装している可能性もあるので、用心して上海に武装させる。
 とりあえずは準備は完了した。
 私は足音をたてずに物音が聞こえた方向へと急ぐ。
 リビングルームには怪しい影は見えないので、恐らく家の奥に泥棒がいると思われる。
 すると作業部屋や寝室に続く廊下への扉が半開きになっていた。
 ここは確か閉めていたような記憶がある。
 私は扉が軋んで音が鳴らないように静かに開け、廊下の様子を覗くように伺う。
 ……………………。
 よし、とりあえず誰もいない。
 となるとどこかの部屋の中かしら。
 息を殺し抜き足差し足で廊下を移動する。
「…………!」
 また物音が聞こえた。
 それは奥の部屋から聞こえる。
 先ほど物音が聞こえた場所を特定しようと、駆け足でその部屋へと近づく。
 すると再び物音が聞こえた。
 何かを漁っているような音。
 この部屋からだ……。
 そう思い、私はなんの部屋か顔を上げて確認する。
 そこの扉には、小さくデフォルメされた私がベッドに入って眠っている絵が描かれた木のプレートがかけられていた。
 私の寝室。
 もっとも安息できる部屋。
 大切な大切な部屋。
 そんな部屋に泥棒が入られるとはなんたる屈辱。
 許すまじ泥棒めっ。
 思えば思うほど怒りが倍増していく。
 寝起きで怒りの頂点もすぐに達する。
 今すぐにでも寝室に突入して泥棒を懲らしめたいところではある。
 しかし、泥棒も何か武装している可能性があるので、無理をして怪我をする訳にもいかない。
 となればやはり待ち伏せが一番だろう。
 私は扉の横の壁に張り付き、出てきた者がすぐには確認できない位置に身を潜める。
 泥棒が出てきたら上海で襲いかかり捕まえるという寸法である。
 だが、泥棒が寝室の窓から外に抜け出す可能性もあるので、中の物音には細心の注意を払う。
 可能な限り捕まえてやりたい。
 だから扉から出てきてほしい、と何度も何度も願う。
 その願いが通じたのか、物音が一旦静まり、足音が扉に近づいてくるではないか。
 おお、よく判っているじゃない。
 心の中で小さく握り拳を作って喜ぶ。
 だけど、まだ気を抜いてはいけない。
 相手が完全に動けなくなるのを確認するまでは、緊張の糸を張り続ける。
 微かな足音が徐々に大きくなっていく。
 出てきたら反撃する前に封じ込めれば良い。
 しかし、もし失敗したらどうしよう。
 そんな不安が急に生まれる。
 何を今更恐れているのか。
 緊張で息を飲む。
 汗が頬を伝う。
 出てくるなら早くして。
 この張りつめた空気が嫌だ。
 胸の高鳴る音が大きく響く。
 その時、扉のドアノブが回った。
 そして扉が開かれる。
 きたっ!
 今すぐにでも襲いかかりたいけど、ここは我慢。
 完全に姿が見えてから、上海で襲いかかるのだ。
 部屋から誰かが姿を現す。
 すかさず私は大剣を持った上海で襲いかかる。
「この泥棒――――え!?」
 勢いよく剣を振り上げた上海が泥棒へと突進する。
 しかし、私は出てきた者の姿を見て目を見開いて驚いてしまう。
 薄紫色の癖がまったくない膝辺りまで伸びた長髪に、細長くシワの入った二本の兎耳を揺らせ、白のカッターシャツを捲り、青い膝上の長さのスカートを靡かせる。
 容姿端麗な体躯だけど、表情には幼さも見え隠れする。
 それは泥棒ではなく、私の友達である月兎の鈴仙であった。
 寝室から出てきた彼女は布団を抱えていた。
 その布団は私が夏場に愛用しており、風通しが良く触り心地が最高の物である。
 睡眠時のいわば相棒。
 ってそんな暢気に思考している暇はない!
 私は驚きで反応が一瞬遅れてしまい、慌てて突進する上海を止める。
 しかし、勢い良く突進し、さらには大剣という重量がある物を持っている上海は私が予想しているよりも勢いがあり、いつもの力で止めることができなかった。
 大剣を振り下ろしはしなかったものの、大剣を持った上海という投擲物は、それに気づいた鈴仙の顔面へと直撃した。
「ふぎゃっ!?」
 短い悲鳴を上げながら、鈴仙の体が大きく後方へと傾いた。
 薄紫色の髪を靡かせながら倒れていく姿。
 時がゆっくりと進んでいくように流れていく。
 私は頭の中が真っ白になってしまう。
 やってしまった、謝らないと。
 いや、それよりも助けないと。
 何から助けないといけないんだろう。
 ああ、やはり先に謝らないといけない。
 ああ、でも……でも……。
 そんなことを考えている間に、鈴仙の体がその後方にあった机へと当たる。
 幸いだったのか不幸だったのか机は大きく揺れたものの、倒れることはなかった。
 しかし、机の上に乗っていた花瓶が左右に揺れ、達磨のように絶妙なバランスを保っている。
 そしてその時、態勢を崩した鈴仙がその華奢な体を床に打ちつけ、持っていた布団も放り出す。
 丁度花瓶が鈴仙側へと傾いた時だったので、床に打ちつけた衝撃が加わってしまい花瓶がバランスを崩してしまう。
「あッ――――!!」
 そう言葉が漏れる。
 本当は上海で花瓶を支えれば良かったのだけど、驚きで動揺しているため、体が氷のように固まってしまった。
 私はただ見ていることしかできなかった。
 花瓶の口が倒れている鈴仙へと向かって倒れ、中身の水がこぼれる。
 そして、こぼれ出た花瓶の水は鈴仙の衣服を容赦なく濡らした。
 背筋に嫌な感覚が広がる。
 全身が強ばり、顔から血の気が引いていく。
 一瞬の出来事であった。
 すぐさま静寂が周囲を取り囲む。
 廊下にある開け放たれた窓から吹き込む風が私を撫でる。



「本当にごめんなさいっ!!」
 手のひらを合わせながら、頭が取れるかと思えるほどの勢いで下げ、必死に謝罪の言葉を述べる。
 先ほどまでお昼寝をしていたリビングルームのキッチンに近い位置にある木製の椅子に座る鈴仙は、困ったように笑顔を作る。
「大丈夫だから、そんなに謝らなくても良いよ」
「ごめんなさい……私がちゃんと確認しなかったから……」
「私のほうこそごめんね。勝手にアリスの家を歩き回って……泥棒と勘違いしても仕方がないよね」
 そう言いながら優しく微笑む鈴仙。
 彼女は今、私のお気に入りである桃色の水玉模様が描かれたパジャマを着ている。
 彼女の着ていた衣服は花瓶の水で濡れてしまったので、同じく濡れたお気に入りの私の布団と一緒に洗濯して外で干している。
 今日は暑いし日差しも強いけど、夜までに乾くかは判らない。
 その間、裸でいてもらう訳にもいかなかったので、とりあえずパジャマを着てもらうことにした。
 せっかく訪ねてきてくれたのに、私は鈴仙になんてことをしてしまったのだ。
 少し前の私を殴ってでも止めてやりたい。
 私が謝ってばかりいて空気が重くなるのが判る。
 鈴仙が来ているのになんて酷い空気なのだろうか。
 だけど、私は何を言えば良いか判らない。
 もう、本当に私は何をやっているのか。
 そうしていると鈴仙が口を開く。
「そういえば、永遠亭に連絡ってもう届いたかな?」
「え? あ、うん、もうついているころだと思うよ」
「そっか、ありがとうね」
 鈴仙の衣服を洗濯している時、陽が暮れる前に乾くかどうか自信がなかったので、私は彼女の家である永遠亭へと上海を送った。
 私は何度か永遠亭に行ったことがあるので、送り飛ばすのにはなんの苦労もない。
 鈴仙の代えの衣服を持ってきて欲しいということを、私は幻想郷の文字を上手に書けないので、鈴仙に書いてもらって上海に持たせた。
 今頃手紙を見た者が着替えを持って向かってきているところだろう。
 それは良いんだけど……。
「…………」
「…………」
 会話が続かない。
 私は鈴仙に悪いことをしてしまい言葉が出てこない。
 鈴仙は私の家の中を漁っていたことを気にしているのか、あまり発言しようとはしない。
 だからお互い言葉がない。
 どうすれば良いんだろうか。
 鈴仙が遊びに来てくれたのに。
 何か話さなければ……でも、何を話せば。
 鈴仙へと視線を向けると、彼女と視線が重なる。
 言葉が出てこなかったので、とりあえず微笑むと鈴仙も返すように微笑んだ。
 だけど、会話はない。
 もうどうすれば良いのよ。
 誰か助けてよ、本当に。
 動くにも動けないので、夏の暑さが私を襲い背中や額に本日何度目か判らない汗が滲む。
 汗をかきすぎて体が気持ち悪い感覚に襲われる。
 これじゃあ汗臭くなってしまう。
 そうしたら鈴仙に嫌な顔をされてしまう。
 そういえば、鈴仙の衣服を洗濯していた時も花瓶の水の臭いが結構きつかった。
 まぁ花をいけていた水なので、臭いがあるのは仕方ない。
 そこまで濃い臭いでもなかったし。
 それを被ってしまったので臭いがこびりついてしまったのだろうが、洗剤を使ったので臭いの心配はないはず。
 …………って、待てよ?
 彼女に着ていた衣服に臭いがついているということは、彼女の体にも臭いがついている可能性があるのではないだろうか。
 うん、絶対臭いがついているはずである。
「鈴仙、ちょっと良い?」
「え、何?」
 首を捻る鈴仙に近づき、鼻を動かし臭いを嗅ぐ。
「どっ、どうしたのっ!?」
 鈴仙が変な声を漏らしているような気がする。
 だけど私は気にせず嗅ぐ。
 特に水を被った場所である胸周りや腰周りを重点的に。
 すると微かにだけど、衣服からしたあの臭いがしてきた。
 やはり彼女の体にも臭いがついていたようだ。
 それならばやることは一つである。
「鈴仙」
「なっ、何っ?」
 顔を上げると鈴仙が困ったように私を見下ろしていた。
 困った表情も可愛い月兎。
 真面目な時は美しいのに、このギャップの激しさが彼女の良いところの一つだろう。
 美人なのか、可愛いのか、はっきりして欲しい。
 そんな彼女にこんな植物臭さを残しておく訳にはいかない。
 ならばやることは一つである。
「私と一緒にお風呂に入ろうか!」
「…………えッッッ!?」
 彼女についた臭いとついでに私の汗臭さを洗い流す。
 一石二鳥でなんと素晴らしい。
 少し間を置いてから鈴仙は目が飛び出すかと思えるほど見開き、あんぐりと口を開けて驚いた。


     ☆


 どうしてこんなことになってしまったのだ。
 檜で造られた浴室は永遠亭よりは狭いけど、一人暮らしのアリスにとってはかなり広い造りになっている。
 浴槽には温めのお湯が張っており、桶を使ってそこから水を汲み取り体を濡らす。
 私は裸で風呂椅子に座る。
 裸でもまだ陽が昇っている時間帯なので、暑いくらいでもある。
 だからお風呂には入らず体を綺麗に洗う。
 それだけならなんの問題もない。
 そう、それだけなら……。
 背後からお湯の跳ねる音が聞こえる。
 微かに跳ねてきたお湯が私の背中に触れる。
 振り向きたいけど、振り向けない。
 金縛りのように体が硬直する。
「こんな昼間からお風呂って、気持ちが良いね鈴仙」
「う……うん…………」
 背後からアリスの声が聞こえてくる。
 私は緊張していてまともに声が出ない。
 なんでこんなことになってしまったんだろう。
 お風呂に入るなら別々で良いはずなのに。
 なんで一緒に入ろうと彼女は言ったのだろうか。
 女同士だから問題はないのだろうけど……。
 過剰に反応しすぎだろうか。
 そ、そうだよね、私が変なだけだよね。
 私だって永遠亭の妖怪兎の子たちの裸を見たって、特に気になることはなかったのだ。
 邪念がない視線でアリスを見れば、きっとこんな変に動揺することはないはずだ。
 一回深呼吸を行い気持ちを落ち着ける。
 そして私は恐る恐る背後へ振り返る。
 そう、アリスは私と同じ女なんだし、気にしている私が変なんだ。
 そう思っていても体が重い。
 見えない力で押さえつけられているような感覚。
 やっとのことで頭を横に捻って、チラッと視線だけを彼女に向ける。
 粉雪のように真っ白な肌をした太股や腰部分が見えた。
 ――――!!
 顔面が沸騰していくのが手に取るように判った。
 私は慌てて正面を向いて視線を逸らす。
 チラッと見ただけなのに、心臓が高鳴って視線が定まらなくなる。
 動悸も激しくなり、暑さで流れ出た汗とは違う汗が流れる。
 なんなの、私の体はいったいどうしてしまったの。
 アリスを意識すると気持ちが落ち着かなくなる。
 胸が別人の物のように鼓動し、私の平常心を奪う。
 とにかく私は彼女を見ているとダメだ。
「どうしたの、鈴仙?」
「――――ッ!?」
 ブンブンと頭を左右に振って邪念を払おうとする。
 しかし、私の気持ちを知らずかアリスが私の肩に触れて話しかけてきた。
 呼びかけられたので反射的に振り返ってしまう。
 そして背後に見えたのは不思議そうに首を捻るアリスと、隠されていない彼女の全身である。
 純真無垢な瞳を向けてくるアリス。
 先ほどお昼寝をしていた彼女の姿を見て動揺を隠せなかったけど、今の状況はさらにまずかった。
 彼女は私に裸を見られてもなんの反応も見せない。
 それが普通のはずなのに。
 私は平静を保つことができない。
 思考が狂ってくる。
 ああ、彼女に触れてみたい。
 彼女の肌はどんなに柔らかいのだろう。
 どれほど潤っているのだろうか。
 彼女に触れたい、好きなだけ触れてみたい。
 きっとそんなことをやったら嫌われてしまうだろう。
 だけど知りたい。
 彼女の知らないことを、私は知りたい。
 欲望だけが膨れ上がる。
 こんなに近づくと彼女の香りが私の鼻を擽る。
 まだお風呂に入ったばかりだから香りが残っているのだろう。
 私の嗅覚が敏感になり、柑橘系のような爽やかな香りを彼女から嗅ぎ取る。
 アリスがいる。
 無防備な姿で、アリスがそこにいる。
 アリスが、アリスが、アリスが。
「鈴仙?」
「…………あ……」
 再びアリスが疑問の声を漏らす。
 私はハッと気づいて、視線をアリスに合わせる。
 そして先ほどまでの自分の感情に恐れる。
 欲望が自分自身を狂わせていた。
 まるで獣のように求めてしまった。
 一歩間違えれば彼女との関係を壊してしまうという、身の毛もよだつ恐ろしい行為なのに。
「……うん、なんでもないよ、ちょっと暑くて」
「大丈夫? 熱中症とかじゃないよね?」
「大丈夫だよ、だてに薬師の弟子をやっていないからね。熱中症にはそう簡単にはならないよ」
 心配してくるアリスを安心させようと笑顔を作る。
 本当は土下座をしないといけない恐ろしいことを考えていたのだ。
 とりあえずいつまでも彼女を見ている訳にもいかないので、再び背中を向けるように座り直す。
 ごめんね、こんな私でごめんね。
 懺悔を心の中で行っている時、アリスはポツリと呟く。
「……ねぇ、鈴仙」
「ん、何?」
 先ほどのように暴走する可能性もあるので、あまり彼女を見ないようにして視線だけで振り返る。見えないけど。
 彼女の疑問を抱いた声が聞こえてきた。
「どうして、今日来てくれたの?」
 大雑把だけど根本的な問題。
 だけど返答に困ってしまうような質問。
 私がなぜアリスの家にやってきたのか。
 言われてパッとは思いつかなかった。
 なぜだろう、何か理由があるはずなのに私自身も判らない。
「どうしてって言われても……」
「外に出るのも億劫になる暑い日なのよ、それなのにこんな人里から離れた場所に来るなんて何か理由があるのでしょ?」
「…………な、ないんだけど」
 アリスの意見はもっともだ。
 だけど、私は本気で思いつかないのだ。
 あまりにも心当たりがないものだから、申し訳なくなってくる。
 必死に思い出そうとするけど、ひと欠片も出てこない。
「じゃあ、理由がないのに来てくれたの? あの持ってきてくれた紅茶は?」
「それはここに来る途中で買っただけだし……」
 紅茶の葉はとにかくアリスの家に行こうと思い立った後、手ぶらはダメだと思い買ってきただけなので、ここに来ようと思った理由ではない。
 言ってしまえば、フッと思ったから来たのだ。
 アリスの家に行こうかな、と思い出かけてきた。
 家を訪ねれば彼女に会えるかもしれない、その思いが私を真夏日の中をここまで動かしたのだ。
 そう、アリスに会いたいと思ったから来たのだ。
 ここを訪ねればアリスに会える。
 優しい表情の彼女に会える。
 彼女と二人っきりでお話したり、笑いあったりできる。
 それだけで私がここに来る理由にはならないだろうか。
 深く掘り下げれば、私の思いが見えてくる。
 私は彼女に会いたい。
 彼女と少しでも長い時間を過ごしたい。
 彼女と一緒にいたい。
 自分の思いに気づくと、胸が熱くなる。
 夏の気温のせいではない。
 それとは違う感情が広がる。
 本当に私はどうしてしまったのだろうか。
 胸に手を当てると鼓動が伝わってくる。
「それなのにごめんね……私のせいで服を濡らしちゃって……」
 背後にいるアリスの声が暗く落ちる。
 彼女の表情を伺いたいけど、肌を見る訳にはいかない。
 よっぽど先ほどのことを気にしているみたい。
 アリスは気にしすぎだと思うけど、なんとなく彼女の気持ちが判るような気がする。
 自分自身のせいで他人に不快な思いをさせてしまったことを相当悔やんでいるのだろう。
 私は別に衣服が濡れただけだし、何よりアリスは悪気があってやった訳ではないので気にしていない。
 アリスが相手なら、悪気があっても許してしまいそうだけど……そんな彼女の姿は想像できないので大丈夫だ。
 慰めたいけど、アリスを見られないので難しい。
 暗くなる彼女を明るくするにはどうすれば良いのだろう。
 私はそんな上手なことは言えない。
 もしかしたらさらに落ち込ませる可能性もある。
 だけど、私は思いのまま言葉を述べる。
 アリスには笑っていて欲しいから。
 彼女に暗い表情は似合わないから。
「んー……こんなことを言うのはなんだけど、これはこれで良かったかなぁ……」
「え?」
「こうやってゆっくりアリスとお話できるしね」
 本当はアリスの寝室に忍び込んだので追い出されると予想していた。
 しかし、そんなことは全くなく、こうして場所が場所だけどお喋りをすることができた。
 結果的に良しとすれば、水がかかったことは幸運とも言える。
 アリスの裸とか見えたし……いけない、気を抜くとすぐ変な考えが頭を横切る。
 過ぎ去ってしまった予想を苦笑しながら語る。
「だけど、私はてっきり追い出されるかと思ったよ……」
「なんで私が鈴仙を追い出さないといけないのよ!?」
 苦笑しながら話していると、アリスが突然声を荒げる。
 失言でもしてしまっただろうかと、自分の言った言葉を思い出すが、失礼なことは言っていないはずである。
 だけど背中越しに気の立った気配が伝わってくる。
 何がどうなっているのか判らないけど、私は慌てて追い出されると思った理由を、言い訳するようにアリスへと告げる。
「だっ、だってアリスの部屋を勝手に漁ったりしていたから、当然追い出されるものだと……」
「鈴仙にそんなことする訳ないじゃない……他人じゃないんだから、私の家の中は好きにしても良いのよ」
 怒っているような声。
 彼女を怒らせたようだ。
 だけど、不思議と不安な気持ちにならない。
 相手を不快な気持ちにさせたら、嫌われる可能性だってあるのに、私の中に不安な気持ちは微塵もない。
 声色で判るからだろう。
 アリスは怒っていないと。
 不機嫌なんだけど、私を嫌っているような声色じゃない。
 私を信頼しているような言葉。
 それだけでも嬉しかった。
 アリスから拒絶されていないと実感できたから。
 誰かから信頼されるというのは、嬉しいことこの上ない。
 そして何よりアリスが私のことを信頼していることが判る。
 アリスが不機嫌なのに私の口元が緩んでしまう。
 嬉しい、ありがとう。
 何度も唱える。
 今日はここに来て本当に良かった。
 喜びを噛みしめる。
 お風呂じゃなかったら、アリスが今どんな表情をしているのか確かめたかった。
 きっと不機嫌そうな表情をしているんだろうな。
 可愛らしく頬を膨らませて紅潮させているかもしれない。
「それともう一つ聞きたいんだけど」
「ん、何?」
「なんで、鈴仙は私に背中を向けているの?」
「えッ?」
 甘い妄想を抱いて顔をニヤケさせていた時、鋭利な刃物で刺されたように胸が大きく鳴る。
 なんで私がアリスに背を向けているかって?
 そんなの貴女の裸が目に入ってしまうからじゃない。
 でも、やはりそんな理由は変だろうか。
 なんて言い訳をすれば良いのか。
 はっきりとした答えが思いつかない。
 早く答えないと不信に思われる。
 だけど言葉が見つからない。
 お風呂場での静寂が痛いほど響いた。
 とりあえず場つなぎで適当に誤魔化そう。
「いや……特に意味がないけど……」
「嘘ね」
 震えていた私の声をかき消すようにアリスが否定した。
 うぐっ……なんか一発でバレたんですけど。
 背中に嫌な汗が流れ出す。
 アリスを視界に捉えていなかったから、余計怖く金縛りのように動けなくなる。
 言い当てられ、平常心が崩れ始める。
「そっ、そんなことはないよ!」
「じゃあ、なんで今もこっちを向いてくれないの?」
「それは…………」
 だから向いたら貴女の裸を見ちゃうじゃない。
 ああ、そんなことを言ったら確実に嫌われてしまう。
 しかし、このまま無駄に時間を消費したら結果は同じになってしまうかもしれない。
 あ、でも可能性があるだけで、意外に許してもらえるのでは……。
 と思ったが背中に突き刺さるような視線を感じる。
 アリスが私の反応を伺っているようだ。
 逃げられない、いや、一刻の猶予もなくなっている。
 これ以上、彼女に嘘をつけない。
 言うしかないのだろうか。
 問いかけても誰も答えてくれない。
 私が答えを出すしかない。
 逃げ場のないこのお風呂場で、私は勇気を振り絞る。
「…………抑えられないから」
「……え?」
 かき消されそうなほど微かな声が私の口から漏れる。
 本当に自分の声かと疑ってしまうほどの声。
 言ってしまった。
 今まで抑えていた言葉を言ってしまった。
 だけど一度決壊してしまえば、言葉は止めどなく出てくる。
「私、今のアリスを見たら抑えられないと思うから……」
「どういうこと……?」
 アリスはまだ理解をしていない。
 本当は知らないままでいてくれれば良い。
 このまま何事もなく時間が過ぎ去り、終わってしまえばなんて楽なのだろうか。
 しかし、私が抑えられなかった。
 何もかも吐き出すように喋りたい。
「今日、なんか変なの。アリスを見ていたらよく判らない感情が膨れて、止まらなくなるの……アリスに触りたくて仕方がないの」
 言ってしまった。
 言ってしまった。
 欲望を言葉に出してしまった。
 意識が混濁し、視界も歪み始める。
 静かなお風呂場のはずなのに、耳鳴りが大音量で聞こえてくる。
 彼女は私の言葉を聞いてどんなことを思ったのか。
 彼女は何も語らない。
 ただ黙って、言葉がない世界。
 時が止まっているのではないだろうかと思える。
 世界が止まっている。
 どうすれば良いのだろうか。
 私はどうすれば良いのか。
「変だよね……気持ち悪いよね……ごめんね、ごめん……」
 彼女はきっと私の言葉を聞いて嫌悪感を抱いているのかもしれない。
 それとも呆れて言葉がないのかもしれない。
 怖い。
 彼女の次の言葉が怖い。
 この沈黙も怖い。
 怖い。
 怖い。
 何もかもが怖くなる。
 顔が真っ赤になっているのが判る。
 恥ずかしくて、辛くて、感情が混同する。
 床に足が着いていないような浮遊感。
 早く喋って欲しい。
 彼女の言葉を聞きたくない。
 矛盾が交差する。
 早く。
 嫌だ。
 早く。
 嫌だ。

「……じゃあ、触っても良いよ」

 狂いそうな意識の中、その言葉は水面に落ちた波紋のように広がる。
 刹那、世界が無音になった。
 静寂とは違う、本当に何も聞こえてこない無音の世界。
 先ほどまで混濁した意識が消え去り、嫌なほどはっきりした感覚である。
 最初は聞き間違いかと思えた。
 だけど、聞き間違えでこんなに意識が戻るのだろうか。
 誰の声?
 そんなの一人しかない。
 ここには私とアリスしかいない。
 じゃあ、今の言葉は彼女が言ったのだろうか。
 いや、彼女がそんな言葉を言う訳ない。
 ならば誰が言ったのだろうか。
 それに背後から感じる視線は先ほどのように鋭くなかった。
 むしろ撫でるようなくすぐったい視線。
 お風呂場の空気も変化しており、息苦しくはない。
 恐る恐る声を絞り出し、背後のアリスへと声をかける。
「……アリス?」
「鈴仙が触りたいなら、私を好きにして良いよ」
 恥ずかしがるようにアリスが声を小さくして囁いた。
 やはりアリスが言ったのかぁ……って、えぇッ!?
 すんなり受け入れそうになったが、とんでもない言葉だと気づいて、声に出さなかったけど驚く。
 彼女は何を言っているのだ。
 私の好きにして良いって、意味を判っているのか。
 もしかして意味が違うのだろうか。
 いや、何か雰囲気が変である。
 明らかに奇妙なことになってきた。
 理解できない状況である。
 えっ、私はどうすれば良いの。
 えっ、えっ?
「さっき言ったよね、好きにしても良いよって」
 アリスの声が近くなる。
 それと同時に背中に何か柔らかくて細長い物が触れる。
 ――――――――ッッッ!!??
 全身に稲妻が落ちるような衝撃を受ける。
 明らかに柔らかくて、無機物のような触感ではない。
 もう何か判っている。
 というか、もうこの状況では一つしかない。
 アリスが私の背中に触れているのだ。
 しかも手で触れているのではなく、もっと大きな面積で体が触れられている。
 まるで寄り添っているかのような感覚。
 あ、あ、あああああ、アリスッッッッッ!!??
 そう言おうとするが口をパクパク動かすだけで、急激な緊張のため声がまったくと言って良いほど出なかった。
 胸が破裂するかと思えるほど高鳴る。
 全身が石のように……いや、もう金剛石のように硬く固まる。
 背中の、アリスが触れている箇所に全神経を集中させる。
 なぜこのような状況になっているかは心当たりがない。
 だけど、こんなチャンスは滅多にない。
 ならばできる限りのことをするだけである。
 彼女が触れている。
 彼女が傍にいる。
 そう考えると幸福な気持ちになる。
 生きていて幸せだと思えた。
 しかし、その幸せが突然離れてしまう。
 背中の感触が離れていく。
 なぜっ!? と疑問に思った時、アリスがポツリと呟いた。
「鈴仙……こっち向いて」
 彼女の言葉が私の中で反響する。
 振り返ったら彼女を見てしまう。
 今の状況で彼女を見るのはマズい。
 マズいんだけど、それを抑えることができない。
 彼女の言葉は全身を束縛して、私の意志に反する動きを強要させる。
 視界がゆっくりと動く。
 檜のお風呂場、湿る床、すりガラスから差し込む太陽光。
 ぴちゃぴちゃと床を踏む度に足の裏が濡れる。
 一秒が十秒、一分が一時間、そう思えるぐらい時がゆっくりと進み、世界が頭の中に焼き付く。
 風呂椅子に座りながら体を背後のアリスへと向ける。
 粉雪のように白い肌、華奢な体躯は水で濡れ、彼女を隠す物は何もない。
 儚くも見えるまるで花のような存在。
 幻想かと錯覚してしまうが、彼女は目の前にいる。
 すりガラス越しにお風呂場を照らす日光が彼女の輪郭をより鮮明にする。
 金色の髪はまだ湿っておらず、明るさと暖かさを保つ。
 しかし、彼女の顔は手足とは違い、ほのかに紅潮しているようにも見える。
 恥ずかしそうな素振りを見せるアリスだが、その青い双眸は私を見つめていた。
 彼女が冗談を言っていないことは、その瞳を見ればすぐに判った。
 とても真剣な表情。
 だけど、顔は真っ赤。
 頑張っているんだな。
 彼女も恥ずかしい感情を隠して言ったのだろう。
 バレバレではあるけど。
 無理をしているアリスを見たら、少しおかしくなってしまい声が漏れてしまう
「アリス、顔が真っ赤だよ」
「ッ!! 鈴仙だって、トマトみたいに真っ赤よ!」
「うん、なんとなく判る」
 指摘されるとアリスはさらに顔を紅潮させる。
 ああ、可愛いな、アリスは。
 そんなアリスを見て、私も顔が熱い。
 火照るような感覚。
 異常に気持ちが落ち着いているようにも思えた。
 しかし、それは私の動揺が限界を超えたのかもしれない。
 もうどうとでもなれという気持ち。
 開き直っているとも言える。
 ただ、目の前にいるアリスへと視線を向ける。
 まじまじと見つめる訳でもなく、ただ眺める。
 風景を見るような感覚。
 アリスが素肌をさらしている。
 彼女の見たことがない部分も見える。
 可愛い。可愛い。可愛い。
 アリス。アリス。アリス。
 何度も言葉が反響する。
 アリスが目の前にいる。
 手を伸ばせば届く距離。
 顔も近づければ届く距離。
「……鈴仙は今の私を見てどう思う?」
 アリスが恥ずかしがりながらも問いかけてくる。
 その問いは愚問としか言えない。
 彼女は私が汚いとでも言うと思っているのだろうか。
 私は微笑みながら彼女の問いを返す。
「可愛いね」
「……ふふ、鈴仙に言われると嬉しいな」
 はにかむように彼女は顔を緩める。
 夏場という暑い環境だけど、くすぐったい温もりが広がる。
 素直な意見。
 元々彼女は美しい。
 服を着ている彼女はお人形さんのように見え、造形品とも言えるような美貌を持っていた。
 だけど、今の彼女は何も身に纏っていない。
 生まれたての赤子のような姿。
 粉雪のような素肌に無駄な肉がついていない腰周り。
 着やせするタイプだったのか、アリスの胸は服を着ているよりも少し大きく丸みを帯びて美しく見えた。
 腕や脚はほっそりとしなやかで、子供のような体つき。
 若々しい体躯と、顔は丸みを帯びた顔のラインと筆で描いたように色濃い目元、前髪で見え隠れするまん丸な瞳はいつもの彼女より色っぽく見えた。
 いつもと違うアリスの姿。
 それだけで私は嬉しかった。
 時が進んでいるのか、止まっているのか判らない。
 どのくらい経ったか判らなかった。
 アリスが私を見ながら微笑み、そして潤った唇で言葉を弾く。
「ねぇ、良いよ、私に触って鈴仙」
「本当に……良いの?」
「うん、鈴仙の好きにして良いよ。今日は暑いから頭がどうかしてしまったのかもしれないわ」
 確認してもアリスは迷うことなく頷いた。
 彼女は拒否しない。
 私を受け入れてくれる。
 本人が良いと言っているのだ、触って良いんだ。
 だけど、触れると思ったら急に不安が生まれる。
 こんな私が触って良いのだろうか。
 本当は無理をしているのでは。
 嫌々だけど、アリスは優しいから承諾してくれたのかもしれない。
 暑さで頭が変になったと言ったけど、変になっているのは私なのかもしれない。
 一度生まれた不安はなかなか消えない。
 かき消すこともできに厄介な存在。
 これを解消できるのはアリスだけである。
 彼女の言葉だけが解消してくれる。
 再度、確認するように私は彼女へと言葉を綴る。
「私も……暑さで頭が変になったかも……気持ち悪い?」
「そんなことないよ、私たちは一緒だね」
 アリスは微笑むように言った。
 ああ、夢のような気分である。
 白昼夢という奴なんだろうか。
 しかし、現実は目の前にある。
 だが、どういう風に触れば良いんだろうか。
 二の腕や太股だろうか。
 いや、この雰囲気ならもっと踏み行っても大丈夫かもしれない。
 それならばお腹だろうか。
 いや、む……むむむ、胸とかもいけるかも。
 まてよ、お腹より下とかもいけるのか?
 下腹部……胸……唇……って、私は何を考えているんだ!
 なんでこんな性欲が高まってきているの!
 確かに兎は性欲が強いけど、女性相手にここまで高まるものなのだろうか。
 兎耳以外は彼女の体と私はほぼ同じなはず。
 それなのに、彼女の体に興味が沸く。
 私の体は、アリスではどんなのだろうか。
 自分の体は良く知っている。
 だから異なるアリスの体が気になる。
 知りたい。
 彼女を知りたい。
 しかし、本当にどこを触れば良いのだろうか。
 彼女は良いと言ってはいるものの、さすがにいきなり胸を触るのはダメだと思う。
 動くに動けない空気。
 居心地が悪い空気ではないけど、お互い遠慮しているような空気はしっかりある。
 相手の出方を探るように言葉が出てこない。
「……今日ね、暑いから誰も来ないと思ったんだ」
 痺れを切らしたのはアリスであった。
 ポツリと呟く。
 そして私の動くタイミングが消え去ってしまった。
 欲深く物事を考えるとロクなことにならないなぁ。
 だけど、無言が続くよりはマシである。
 私は静かに彼女の言葉を待つ。
 すぐにアリスは顔を綻ばせながら言葉を綴る。
「暑くて暑くて、このままずーっと誰も来なかったらどうしようと不安に思っていてね。だけど、鈴仙が来てくれて凄い嬉しかったの。ちょっと手違いもあったけど……本当に嬉しかったの、来てくれてありがとうね」
 言い終えると、アリスは再び笑顔を向けた。
 私は彼女に感謝されるような大それたことはしていない。
 私だってアリスに会いたいからここにいるのだ。
 彼女が寂しいと思ったから来た訳ではない。
 むしろ自分の欲望を叶えるためにきたようなものだ。
 自分のことしか考えていない。
 わがままな月兎だ。
 それなのに、彼女は私に感謝している。
 間違いなのに、彼女の勘違いなのに。
 私こそ、彼女にお礼を言わなければいけない。
 こうやって追い出さずに一緒にいられることを。
 アリスの言葉を訂正したほうが良いのだろうか。
 いや、この状況だと無粋なのかもしれない。
 うん、そうだね。
 お礼を告げられたのだから、私もお礼を言わないと。
「私も、アリスと一緒にいられて嬉しいよ」
 心の奥底からの思い。
 嘘偽りなく、真実しかない言葉。
 彼女との時間が幸せである。
 彼女と一緒ならどんな場所でもずっといられる。
 今日のように暑い日だって、彼女と一緒なら乗り越えられる。
 アリスアリスとどこまで彼女を求めるのだろうか。
 病気とも言われても不思議ではない。
 だけど、この病気は治らないでほしい。
 この思いがあるから、アリスと一緒にいられるのかもしれないし。
 迷惑かな。
 煙たく思っているのかな。
 今はその思いを忘れよう。
 ただ流れに身を任せる。
「アリス……」
「鈴仙……」
 アリスがひと言呟くと静かに瞼を閉じる。
 世界が無音となり、私たちだけしかいない。
 彼女の吐息が聞こえてくる。
 静かに腕を動かす。
 彼女のどこに触れるかなんてもう良い。
 思いのままに動けば良いんだ。
 私は友達に対してなんてことをしようとしているのか。
 普通は友達相手に、そんなことはしないはずだ。
 私は異常者なのだろうか。
 だけど、アリスはそのことについて何も言わない。
 きっと今日は暑いから、頭が混乱しているのだろう。
 何も音が耳に入らない。
 彼女の吐息が響く。

「――――何やっているのッッッ!!」

 無音と思われた世界に怒声が響く。
 心臓が砕けたかと思えるほど高鳴り、夢の中のような意識が一瞬で消し飛んだ。
 瞼を閉じていたアリスも目を見開き、風呂椅子から転げ落ちそうになっていた。
 私は頭が真っ白になっていたが、慌てて倒れそうになる彼女を受け止める。
 彼女の素肌の感触が私の手のひらに、体に広がる。
 それだけで先ほどの私なら我を忘れるだろう。
 だが、真っ白になっている頭では我を忘れる暇がなかった。
 世界に音が戻る。
 風の音や床に広がる水を踏む音。
 私に支えられているアリスはその水を踏む音が聞こえた方向へと振り返る。
 それは先ほどの怒声が聞こえた方向でもある。
 私も慌てて頭を上げ、声の主を確かめる。
 それは白い饅頭のように丸く大きな二つの兎耳を癖毛の強い肩まで伸びた黒髪から生やし、童顔とも言える顔つきの女の子はまん丸な瞳を鋭く尖らせ、顔を紅潮させながら憤怒の表情で私たちを睨みつけていた。
 真っ白なワンピースを身に纏い、隠されていない腕や脚の肌色はとても健康的で、兎耳以外の見た目は子供と同じだった。
 女の子はさらに顔を赤くしながら叫んだ。
「だっ……抱きつくなぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッッッ!!」
 そう言われて私とアリスは気づいて顔を見合わせ、すぐさま状況を理解して慌てて離れる。
 アリスは恥ずかしそうに顔を伏せ口ごもってしまう。
 私は同じく口ごもりたかったが、目の前にいる兎耳の女の子……いや、永遠亭の妖怪兎たちをまとめ役で、私にとっては腕白な妹のような存在である妖怪兎――因幡てゐを放っておく訳にはいかなかった。
「てっ、てゐ!?」
「鈴仙様!! アリス!! アンタたちはこんな真っ昼間に何をやっているの!?」
「いっ、いや……これはぁ……そのぉ……」
 なんて言えば良いか判らない。
 そりゃあそうだ、ついさっきまで不健全なことになりそうだったのだから説明できる訳がない。
 言えないほど恥ずかしいし、アリスだって恥ずかしいだろう。
 だから言葉が出てこず、視線が四方八方へと飛ぶ。
 とりあえずここは話を変えなければ……。
「てゐ、勝手に人の家に入るのは良くないと思うのだけど……」
「何を言っているのですか! 私は何回も玄関で声をかけましたよ! だけど玄関が開いているから泥棒が入ったんじゃないかと思って入ったら……何やっているんですか!?」
 どうやら、てゐは少し前の私と同じ心境だったようだ。
 当たり前である、声をかけて誰も来ず、玄関が開いていたらそう思うのが一番無難である。
 これでてゐがアリスの家に入ったことを責められなくなってしまった。
 てゐは心配しての行動だから全て悪い訳ではない。
 するとてゐの背後に、彼女と容姿がそっくりな妖怪兎の女の子二羽が顔を出してこちらを覗いていることに気づく。
 二羽は共に顔を真っ赤にしながら手で顔を覆い、指の隙間から恥ずかしそうに視線を向けていた。
 私から見て右側の妖怪兎の腕の中には、金髪で真っ赤なリボンをつける上海が抱かれており、左側の妖怪兎は永遠亭から持ってきたと思われる私の代えの服を抱きしめていた。
「貴女たち、いつから見ていたの……?」
「私も、アリスと一緒にいられて嬉しいよ……ってところからですよ!!」
 てゐは私の真似をした後、再び顔に怒りの色を濃くして怒鳴った。
 うわっ、なんて最悪な時から見られたのだろう。
 そこからだと理由もなしに私がアリスを触ろうとしているようにしか見ない。
 ってことは前半のアリスとの会話は聞かれていないのか……いや、聞かれたからってやろうとしていたことは変わらないか。
 とにかくマズいところを見られてしまった。
 何がマズいかはいまいち判らないけど、とにかくマズい。
「せっかく鈴仙様の代えの服を持ってきたのに……二人の姿を見せつけて、嫌がらせのつもりですか!?」
 私の服を持ってきてほしいと、少し前にアリスに頼んで連絡してもらったじゃないか。
 誰かしらが来るのは判っていたのに……迂闊であった。
 どうすればてゐに納得してもらえるか……。
 いや、もうこの状況は打開できないかもしれない。
 悩み苦しんでいると、てゐの視線がアリスへと移動する。
「……アリス! アンタが鈴仙様を誘惑したの!?」
「ゆっ、誘惑なんてそんな!」
 てゐの言葉に私は驚いた。
 しかし、さらに驚いたのはアリスであった。
 彼女は疑惑の眼差しを否定するように言い放つが、少し挙動不審に見える。
 これはこの状況を払拭するチャンスではないだろうかと思い、すぐさまアリスに加勢する。
「てゐ、アリスにそんなことを言ったら悪いよ」
「鈴仙様は黙っていてください!!」
「うぐぅ……」
 普段見せない迫力に、一発で黙らされてしまう。
 数瞬前の私の決意は見る影もない。
 いつもは私のことを慕ってくれるいたずら好きな子なので、今のてゐは迫力があり師匠のように怖かった。
 私の中にやましいことをやっていると自覚があるためか、彼女に何も言えない。
 アリスも言葉に困っているようで、すぐに口を結んでしまう。
 無言の世界と、怒りの視線と、好奇の視線が二つ私に突き刺さる。
 何も発しない私たちに痺れを切らしたてゐは、大きくため息を吐いて私へと再び視線を向けた。
「もういいです! 鈴仙様、さっさと帰りますよ!!」
 そう言いながら彼女は私に向かって手を差し出す。
 その言葉に私は当初泊まっていく予定がなかったことを思い出した。
 着替えを持ってきてくれたら、私はそのまま帰ると思っていた。
 てゐもそのつもりで言っているのだろう。
 だけど、先ほどのアリスとのやりとりを思い出すと今日は本当に帰って良いのか迷ってしまう。
 もっとアリスと一緒にいたい。
 先ほどの続きができるかもしれないから。
 帰るのがもったいないように思える。
 いや、はっきり言って帰りたくないかもしれない。
 迷った気持ちが私の意志を鈍らせる。
 恐る恐る私はてゐへと問いかける。
「帰るの……?」
「当たり前じゃないですか! なんですか、もしかして帰りたくないのですか?」
「いや、そういう訳じゃないんだけど……」
 私の迷いに気づいたのか、てゐは目を細くして疑うような眼差しを向けてくる。
 変に鋭い子なのよね。
 しっかりしていると言えばしっかりしている。
 さすがは永遠亭の妖怪兎を束ねているだけはあるか。
 正論ばかりを述べられると、他の者には言えないやましいことをしている気持ちがあるので、言葉に詰まってしまう。
 今日はもう帰るしかないようだ。
 こんな身勝手な考えが通るとは思っていない。
 観念してため息を吐こうとした時、アリスが声を張り上げた。
「ダメよ!!」
 その場にいた者は私も含めて面食らったように驚いて、アリスのほうへと視線を向ける。
 突然のことになんだと思い、私は彼女の次の言葉を待つ。
 するとアリスは息を一回吸った後、声を裏返しながら叫んだ。
「ダメよ、鈴仙は今日泊まって行くんだから!!」
 アリスが叫び、その言葉がお風呂場に反響した後、時が止まったような静寂が広がった。
 予想外の言葉が彼女から飛び出した。
 私は目を見開いて驚き、状況把握に手間取る。
 上海と私の服を抱きしめる妖怪兎も目を点にして固まっていた。
 しかし、その中で頭の回転が早い妖怪兎のてゐはすぐさまアリスの言葉に反論するように声を荒げた。
「はぁっ!? 何言っているのアンタは!?」
「何度でも言うわよ! 鈴仙は今日泊まっていくの!」
 一歩も引かずに、むしろ怒鳴るような勢いでアリスはてゐに言い返した。
 予想以上に強気なアリスの態度に、てゐは一瞬身を引いくように肩を大きく上下させて驚いた。
 アリスの表情を伺えないけど、彼女の背中から鬼気迫るものを感じる。
 若干、怖い。
 だがてゐも負けておらず、すぐさま言い返した。
「なんでそんなことになるの!? 代えの服だって持ってきたんだから、帰るに決まっているでしょ!?」
 まさしく正論。
 てゐは正論を述べている。
 何も変なことはない。
 それをアリスはどうやって打開するのだろうか。
 泊まっていくと言ったのだから、何かしらの理由があるだろうに。
 彼女だっててゐは正論を言っているのは判っている。
 不安になりながら彼女の背中を見つめる。
 きっと、何か正当な理由があるのだろう。
 アリスって結構博識だし、私より冷静だし。
 そう思うと安心できる。
「ないから……」
「は?」
 アリスがポツリと呟くと、てゐは聞こえなかったのか疑問の声を漏らした。
 私も近くにいるけど声があまりよく聞こえなかった。
 何を言ったのだろうと、首を捻りアリスの言葉を待つ。
 静寂が続いた後、アリスが高らかに吹っ切れたように叫んだ。

「私の布団、鈴仙が濡れた時に一緒に濡れちゃったから、ないの!!」

 その時、世界が静止した。
 目が点になるとはこのことだろうか。
 アリスが叫んだ言葉を理解できなかった。
 思考が止まり、何度も何度も瞬きを繰り返す。
 さすがのてゐも固まっている。
 うん、私も訳が判らない。
 確かに上海が顔に直撃し、倒れて花瓶を倒した時、寝室から持ち出した布団も一緒に濡れてしまった。
 私の服と一緒に干されているはずだけど……それが今のことの関係あるのだろうか。
 あの布団は、彼女の寝室を探している時、ベッドの上に置いてあった布団である。
 実は重要な物なのだろうか。
 いや、でもなんの変哲もない無造作に置かれていた布団だったし、以前アリスの家で居眠りしてしまった時に彼女が私にかけてくれたものなので、大切な物とは思えない。
 訳の判らない事態に私は首を捻るしかなかった。
「そっ、それが今のこととなんの関係があるの!?」
 しかし、やはり頭の回転が早いてゐは焦ったように疑問を声に出す。
 私とほぼ同様の意見。
 普通はそう思うわよね。
 普通は。
 てゐの言葉に自然と頭が上下に動く。
 すると、アリスはさらにとんでもないことを口走ったではないか。
「あるわよ! 布団がなかったら夏でも風邪を引いちゃうじゃない! だから鈴仙は私の布団代わりになってもらうの!! ねっ、鈴仙!!」
「えええッ!?」
 突拍子もないことを言いながらアリスは私のほうへと振り返った。
 先ほどから表情を伺えなかったけど、やっと彼女の顔を確認することができた。
 その表情はいつも落ち着いて優雅なアリスからは想像できないほど、顔は紅潮し、視線は安定していなかった。
 明らかに正気を保っていないように見える。
 その言葉にさすがの私でも驚きを隠すことはできない。
 彼女は何を言っているのだ。
 私を布団代わりにするだった?
 なんでそんなことになるの。
 むしろ私を布団代わりにしたら暑くて寝苦しくなるに決まっている。
 まさか、アリスが思いついた名案はこれなのか。
 いやいやいや、そんなバカなことがあるものか。
 さらにここから何か言葉を付け加えて正論にするのだろうか。
 でもどうやって。
 私の未熟な頭では想像できない。
 きっと現在頭を最大限に活用し、アリスの言葉の意味を理解しようとしているてゐは何度か口をパクパクと動かした後、やはり私と同じなのかほぼ同様の言葉を吐き出す。
「……なっ、何バカなことを言っているのよ!! そんなの他の布団を代用しなさいよ!」
「嫌よ! 他の布団は冬用ばかりだから暑いわよ! だけど何もかけなかったら風邪を引くわ!」
「勝手に引きなさいよ!!」
 てゐの見事なツッコミ。
 普通なら私はアリスにそんなことを言ってはいけない、と注意するだろう。
 だけど、今のアリスの言葉はどう見ても正論ではなくわがままの範囲だし、何よりいつもの彼女を知っている私にとっては、それは真面目に言っているようには思えず、ふざけているかと思えるほどである。
 だけど、アリスは真剣な瞳を多少四方八方に飛ばしながらも私に向けてきた。
 どうやら本気のことらしい。
 てゐの登場で動揺しているのは私だけではなく、アリスもだったらしい。
 むしろ私より激しく動揺している。
 状況がややこしくなった。
 それだけは言える。
 すると怒鳴り合いのせいか、それとも気温が高いせいか額に汗の粒を無数に浮き出すてゐは、私へと視線を戻し、問いつめるように叫んだ。
「鈴仙様はどうするんですか!?」
「えっ? えーっと……」
 はっきり言って、どうしたら良いか判らないのひと言である。
 ややこしくなって、アリスかてゐのどっちに従えば良いか判らない。
 するとアリスも汗を流しながら私へと問いかけてきた。
「鈴仙はもちろん泊まっていくわよね!?」
 必死な様子が目線から伝わってくる。
 双方共に目が血走っているようにも見えて怖い。
 私の解答によっては恐ろしいことになりそうな空気。
 急激な緊張感。
 ここはアリスに言葉を合わせたほうが良いのだろうか。
 それとも正論のてゐに合わせたほうが良いのだろうか。
 私としてはアリスと一緒にいたいけど、正論を言っているてゐに従わないのは申し訳ない。
 すると、アリスは少し私に顔を近づけてきた。
 彼女の香りが鼻をくすぐってきたため、全身に緊張が走る。
 なんだろうと思い身構えていると、彼女がとても小さな小さな声量でポツリと呟いた。
「……夜、好きなだけ触って良いよ」
 彼女は恥ずかしがるような瞳を向けていた。
 えっ、それって……先ほどの続きをやろうと誘っているのだろうか。
 彼女もこのまま終わりにさせたくないのだろうか。
 諦めかけていた思い。
 だが彼女はまだその気だということが判ると、急激に存在が強く、欲求が強くなる。
 このまま帰っても良いのだろうか。
 帰ったらかなりもったいないことになるのは確実だ。
 しかし……てゐにはなんて……。
「どうするんですか、鈴仙様!?」
「え? じゃ、じゃあ……泊まっていく……」
「はぁっ!? なんですって!?」
 てゐは目を限界まで見開き、顎が外れたかのように大きく口を開けて驚きを露わにした。
 しまった、聞かれてつい本音を漏らしてしまった。
 言ってしまった言葉はそう簡単には撤回できない。
 もうこうなったら泊まっていくことで話を進めなければ。
 このまま帰りたくない。
 うん、そうだ! 今日は帰らないぞ!
 やけくそ気味に決意を固くしていた時、驚いていたてゐがアリスへと詰め寄った。
「アリス! アンタ何か吹き込んだわね!?」
「そっ、そんなことはないわよ……」
 明らかに動揺して嘘をついているのがバレバレなアリス。
 年中無休で嘘をついているてゐにとっては、あからさまな嘘はすぐにバレてしまう。
 アリスって、嘘が下手なんだなぁ。
 そう思いながら眺めていると、てゐが何か思いついたような素振りを見せ、顔を紅潮させた。
「まさか……さっきみたいなことをやる気なのね!?」
「そっ、そんなことはっ!!」
 ごめん、てゐ。本当にその通りです。
 全て見透かされているのは確定的である。
 必死になって否定して嘘を吐くアリスを、今すぐにでも止めたい気分になる。
 ここまで来るとてゐに申し訳なくなってくる。
 いつか彼女にお詫びをしなければいけない。
 それにしても取り繕っているアリスはなんか可愛く見えて仕方がない。
 こんなに必死になっている彼女をあまり見たことがない。
 普段見せてくれない新鮮な姿に、私は少し嬉しくなる。
 必死なのにそんなことを思っている私は酷いだろうか。
「アンタ、鈴仙様の裸を見て興奮しているんじゃないでしょうね!?」
「なっ、なななな何を言っているの!!」
「まさか夜にそのまま二人でいかがわしいことを……あんなことや……そんなことまで!?」
 突然、先ほどまであったてゐの威勢がなくなり、ブツクサと何かを考えるように呟きだした。
 紅潮していた顔はさらに赤く染まり、原色かと思えるほど真っ赤になっていった。
 視線は私たちに向けられることはなく、床へと一点に向けられる。
 明らかに挙動不審。
 そして直前に言った言葉が引っかかる。
 いかがわしいこととは何を示しているか。
 あれほど顔を真っ赤にしているのだ、とてもじゃないが口に出せないことを想像しているのかもしれない。
 いけない、絶対てゐは変な誤解をしている。
 私は慌てて彼女の妄想を止めようと声をかける。
「まっ、待って待って! てゐはどんな想像をしているのよ!?」
「え……どんなってそりゃ…………――――」
 てゐの言葉が急に途切れる。
 先ほどまで安定していなかった視線が急に一点へと集中した。
 私のほうへと向けられている。
 数秒間視線が重なった後、上から下へと眺めるように彼女の目が移動した後、戻るように下から上へと移動した。
 じっ、と私を見つめているてゐ。
 何か私の体にあるのだろうか、と疑問に思い首を捻る。
 てゐの時間が停止してさらに数秒。
 彼女の小さくて可愛らしい鼻から赤い液体が姿を現す。
 赤い液体は彼女の口の周りを撫でるように流れ、ポタポタと液体を床へと落としていく。
 どう見ても鼻血である。
 しかし、彼女は唐突に流れ出た液体に気づく様子はない。
 いや、気づいていたかもしれないけど、何かしらの指摘をすることができなかったのだろう。
 鼻血を流して数秒後にはてゐが倒れたのだから。
「てゐ!?」
 一分もなかった出来事。
 私とアリスは慌てて倒れたてゐへと駆け寄る。
 鼻血を流し、その血と見分けがつかないほど真っ赤に染まった顔面、目を回して気を失っている。
 濡れていた風呂場の床に倒れたものだから、身に纏う衣服は水を吸ってしまう。
 何度呼びかけても気を失ったままである。
 とんでもないことになってしまった。



 それから、私は急いでてゐをお風呂場から風通しの良い場所へと移動させた。
 熱中症の可能性を疑ったからである。
 これだけ暑い日である、可能性はないとは言い切れない。
 お風呂場という風通しが悪い場所でもあるし、湿気で通常より室温が上がっていたような気もする。
 ただ、鼻血を流している意味が少し判らなかった。
 熱中症って鼻血が出たっけ。
 記憶が曖昧なのでなんとも言えない。
 今は、てゐはアリスがお昼寝をしていたソファーで横になり、首筋と脇と膝の裏に濡れた布を当て、私とアリス、そしてついてきた妖怪兎二羽とで団扇を持って扇ぐ。
 てゐが身に纏っていた服は、倒れた時に濡れてしまったので脱がして今は下着だけで横になっている。
 幼くて未成熟な体躯だけど、私より長生きという矛盾。
 まぁ顔色は大分良くなり、鼻に詰めた鼻紙で血も治まったようにも見える。
 大事にならなくて良かったと胸をなで下ろす。
 外は陽が沈んでしまい、月が昇る常闇の空。
 気温も下がり風が強いため、いつもの夏の夜に比べるとかなり涼しい。
 てゐの服は私の服と同じく洗濯して外に干されている。
 だけど今日中には乾きそうにもない。
 また着替えを持ってきてもらうしかないのだろうか。
 いや、それは時間的にも難しい。
 はてさて……こうなったら。
「アリス、お願いがあるのだけど……」
「良いわよ」
「へ? まだ何も言っていないのだけど……」
 異様な早さでアリスが承諾してくれた。
 私は内容を言っていないのだが。
 するとアリスは少し不服そうに眉間にシワを作る。
「どうせ、てゐたちを泊めて欲しいって言うのでしょ?」
「なっ、なぜそれを……」
 私を言うことを判っているなんて、アリスは超能力でも持っているのだろうか。
 それとも魔法の一種か!?
 なんて驚いていると、彼女は苦笑しながら答えた。
「こんな状況で鈴仙が言うのなんて判るわよ。私は貴女とどれだけ友達をやっていると思っているの?」
 彼女は優しく答えた。
 当たり前のことだけど、私とアリスは友達である。
 大切な私の友達。
 口に出して改めて言われると心の底から嬉しかった。
 背中がくすぐったくなる。
 彼女は私が何を考えているか判ると言った。
 だけど、私は彼女の考えていることはあまり判っていない。
 大雑把でしか判っていない。
 私の行動が単純なのだろうか。
 それとも私の努力が足りないのだろうか。
 彼女と友達を続けたいのならば、もっと彼女を知らないといけない。
 それが今後の課題とも言える。
 アリスのことになると、とてもやる気が出てくる。
 ふと、袖が下に何度か引っ張られる。
 なんだろうと思い視線を下げると、てゐを扇いでいた妖怪兎二羽が私を挟むように立って見上げていた。
「鈴仙様、私たち、アリス様のお家に泊まっても良いんですか?」
「アリスが良いって言うのだから甘えておきましょう」
「本当ですか! わぁーい!」
 そう良い妖怪兎たちは手を取って喜ぶ。
 無邪気で可愛らしい姿である。
 普段とは違うことに彼女たちも楽しいのだろう。
 妖怪兎たちは喜びながら、まだ気を失っているてゐへと近づき、団扇で再び扇ぎだした。
 無邪気で自由気ままな妖怪兎。
 そうだ、泊まるってことを永遠亭に連絡しないと。
 このままでは私たちが無断外泊でお仕置きされてしまう。
 だけど、またアリスにお願いしないといけない。
 ここまで頼みっぱなしだとさすがに嫌な顔をするだろう。
 ならば少し控えめに申し訳なさを出しながら頼めば……。
「アリス、悪いけど永遠亭にまた連絡してもらっても良いかな?」
「もう人形を送っておいたわよ」
「早ッ!?」
 手際の良さに脱帽である。頭が上がらない。
 ここまで見透かされていたのだろうか。
 そうなると、私はアリスに嘘をつけないなぁ。
 ということは、先ほどのてゐが来る前にやっていたやりとりも、彼女は全て判っていたのだろうか。
 そうなると、私は変態的な行為をいつも考えていると彼女は思っているのだろうか。
 はぁ、恥ずかしい。顔から火が出そうである。
 それにしても、とんだことになってしまった。
 アリスは私だけを泊めてくれるつもりだったのだろうけど、まさかてゐや妖怪兎二羽を追加で泊めることになるとは夢にも思っていなかっただろう。
 やはり迷惑じゃないだろうか。
 先ほど私が来たことに感謝していたけど、こんなに沢山いるとうるさいと思っているに違いない。
 面倒なことを頼んでしまい申し訳なくなる。
 それに、彼女が誘ってくれたこともこの状況では無理だろう。
 はぁ、残念だが諦めるしかない。
 誘ってくれた彼女にも謝らないといけない。
「ごめんね……」
「なんで謝るの?」
「いや、その……」
 妖怪兎たちは泊まることでハシャいると言っても、この距離は兎耳にはしっかりと聞こえてしまうかもしれない。
 アリスに聞かれて、誘ってくれた内容を口に出すのは躊躇ってしまう。
 なんて伝えれば良いのだろうか。
 紙に書いて伝える?
 それは見られる可能性があるからダメ。
 じゃあ声を小さくして伝える?
 色々伝えたいことがあるので簡潔に伝えるのは難しい。
 本当になんて伝えれば良いのだろうか。
 額に手を当てて頭を最大限に動かす。
 あーでもない、こーでもない。
 様々な方法が思いつくが、実践できそうにもないもの
ばかりである。
 あーでもない、こーでもない。
「それにしても今日は楽しい夜になりそうね」
「え…………?」
 アリスが囁くように言った。
 額から手を離し、彼女の顔を見ると、少し恥ずかしそうにしながらもはにかむように笑っていた。
 可愛かった。
 ただひと言、可愛かった。
 お風呂場の時も可愛かったけど、今はさらに可愛かった。
 まるでてゐや妖怪兎たちが泊まることを歓迎しているようにも見える素振り。
 彼女のその笑顔を見ていると、謝罪の気持ちが薄れてしまった。
 ここは謝るような時ではない。
 本能的にそう感じる。
 私は彼女のこの笑顔が見たかった。
 彼女が笑顔なら、もうそれで良いじゃないか。
「……うん、そうだね」
 彼女に応えるように頷く。
 お風呂場で彼女は寂しいと呟いていた。
 もしかしたら、この状況を楽しんでいるのかもしれない。
 誰かがいるから寂しくない。
 孤独の夜を過ごすよりかはこのほうが良い。
 彼女に確認してみたいが、さすがに気が引ける。
 だけど、なんとなく判る。
 友達だからだろうか。
 彼女の考えは恐らくそうだろう。
 ちょっと予定外だったけど、これはこれで良いか。
 私やてゐたちで良ければ彼女の寂しさを紛らわせよう。
 私ができるせめてもの恩返し。
 貴女は喜んでくれるだろうか。
 貴女は満足してくれるだろうか。
 答えはもしかしたら判らないかもしれない。
 でも、判らなくても良いや。
 彼女と一緒にいられるのだから。
 涼しい夏の夜。
 風が魔法の森の木々を撫でる音が聞こえる。
 遮光カーテンが靡き、家の中に風が入り込む。
 夜の静寂はとても心地よかった。
 短い夜だけど、彼女との時間を楽しむ。
 楽しい世界。
 お互い笑顔でいられるように。




 もしよかったら感想をどうぞ。


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