☆


 春が過ぎ去り肌寒さもなくなってきたこの頃。
 日差しが強く、昼間は厚着をしなくても過ごしやすい。
 私――青木れいかが通う七色ヶ丘中学校は日差しがよく入り、教室内を暖めてくれる。
 現在は午後の最後の授業中。社会の先生が歴史をすらすらと読み、黒板へと白のチョークで書き上げていく。
 私は先生の話を聞き、黒板の内容をノートへと書き写しながら記憶する。
 教室内は先生の声だけが響いているだけで、チョークと鉛筆を走らせる音が僅かに聞こえる静かなものだ。
 いつも通りの教室内の光景。
 別に気になるところなんてなかったと思った。
 しかし、隣の席にいる緑色のベストを着た幼なじみが非常に眠そうな表情をしていた。
 後ろで髪をひと束で結んでいる頭をウトウトと揺らして、眠そうな目を瞼越しに擦りながら必死に眠気を吹き飛ばそうとしているが、あまり効果がない様子。
 いつもは力強い瞳を持っているが、今はその影はなく気を抜いたら眠り落ちてしまいそうである。
 彼女は学校の授業で社会が苦手だったのは覚えている。
 だからと言って授業中に居眠りをするような態度の悪い子でもない。
 横目で彼女の姿を眺めているが、私の視線に気づかないようで必死に眠気と戦っていた。
 しばらくその光景を眺めていくと、彼女の動きが段々と鈍くなっていくのが判る。
 そしてそこから一分もしない内に手の動きが止まり、揺れていた頭も停止していた。
 両瞼をしっかりと閉じており、口は半開き。
 眠っている。
 必死の抵抗も虚しく幼なじみは眠りの世界へ旅立ってしまったようだ。
 と、そんなことを考えている場合ではなかった。
 眠たい相手を起こすのは忍びないが一応は授業中。このまま起こさなかったら怒られるのは彼女である。
 私はあまり声が響かず、先生に気づかれないようにそっと彼女へと声をかける。
「…………なお……」
「はぇ!?」
 隣の席の幼なじみ――緑川なおへと静かに声をかけたら、彼女は奇妙な声を教室に響かせて、体を大きく上下に揺らして驚いたような表情をした。
 教室中に響いたのだから、もちろん教室にいる人間の視線が一気になおへと集中する。
 私もそんな反応が出てくるとは思わず目を見開いて驚き彼女を見つめていると、先生が疑問の声を投げかけた。
「どうした、緑川?」
「え……い、いや、なんでもないです……」
 なおは頬を紅潮させながら苦笑して誤魔化す。
 聞いてきた先生は首を捻りながら特に追求してくることはなく、再び視線を教科書へと戻した。
 周囲の視線もすぐに正面の黒板や教科書へと戻り、いつもの授業風景へと戻った。
 だけど、私は黒板へと戻らず苦笑していたなおへと視線が向いたままだった。
 特に深い理由はなかったけど、呆気に取られていた。
 するとなおが私に気づいて視線を重ねて、先ほど先生にした苦笑よりかは砕けた表情を作りながら「ごめん、れいか」と小さく呟いた。
 いつもと違うなおの様子を追求したかったが、授業中に話すことはできないので「いえ」と短く返して今はそれで終わることにした。
 そしてまた授業へと集中するが、なおがまたウトウトし始めたので気が気ではなかった。
 本当にどうしたのだろうか。


     ☆


 本日の授業が全て終了し、社会の先生が教室から出ていくと、周囲はすっかり同級生たちの喧噪で埋め尽くされる。
 黒板に書かれた先ほどの授業の内容も、今日の日直担当の人が早々に消してしまう。
 本当はなおのことばかりが気になって、先ほどの授業内容が頭に入ってこず、ノートにも書き写していなかったために待って欲しかったのだが、そこは迷惑をかける訳にはいかない。
 後で誰かに見せてもらうことにして、それよりも今はなおのことが気になる。
 先ほどからチラチラと彼女のことを見ていたが、結局授業が終わるまで睡魔と戦っていたようだった。
 そして今の時間も先ほどよりは目が覚めているようであったが、まだ眠たそうな様子でもあった。
「なお、どうしたのですか?」
 目頭を押さえているなおへと話しかけると、彼女は顔を上げて先ほどと同じく苦笑をしながら答えてくれた。
「あー……うん、ちょっと、寝不足」
「寝不足ですか?」
「うん、弟たちの服を直していたら時間がかかってね……午前中は大丈夫だったんだけど、なんかお昼ご飯を食べたら急に眠くなってね。まぁ今は少し眠気が飛んだかなぁ?」
 そう言いながらも瞼が下がっているその表情では説得力がなかった。
「そうですか。今日はちゃんと寝てくださいね」
「うん、そうするよ」
 今度は苦笑ではなくて満面の笑顔。
 だけど少し無理をしているような表情。
 本当は今すぐ眠りたいのだろう。
 その後、下校時間となり部活動以外の生徒は殆どが帰っていく。
 私は生徒会役員としての仕事があるので、まだ帰る訳にもいかない。だけど生徒会の仕事の時間までにはまだまだ時間があったので、生徒会室に鞄を置いて、校舎内を歩き回って時間を潰すことにした。
 なおのことも気になったが、帰りの会が終わってすぐに彼女は教室を出て行ってしまったので、早く帰って自宅で睡眠を取るのだろうと思い、気持ちを切り替えた。
 本当は私がなおに対して何かできれば良かったのだが、睡眠不足は私がどうこうできる内容ではないので、諦めるしかなかった。
 そう思いながら生徒が少なくなった校舎内で、静かな場所を探しながら時間を潰す。
 しかし、まだ校舎には生徒の数も多く、どこもかしこも落ち着けるような雰囲気ではなかった。
 教室もきっと掃除中だと思われ、行っても邪魔になることは確実だったため他の場所を探す。
 と言ってもやはり校舎内外に生徒たちが分散している今の時間では人のいない場所を探すほうが難しい。
 そう思いながら校舎内を練り歩く。
 ふと、校舎の廊下側の窓から外へ視線を移動させると、最近よく利用している中央に屋根つきの休憩所がある中庭が目に入った。
 校舎から見える限り、中庭に生徒は片手で数える程度しかおらず、閑散としている様子であった。
 すると中庭の端に設置されている木製のベンチに、誰かが片腕で両目を覆い、横になって寝転がっている姿を見つけた。
 誰だろうと思い目を凝らしてみると、それは私がいつもよく見ている緑色のベストを着ている女子生徒。
 なおである。
 てっきり帰っていたと思っていたが、そうではなかったようだ。
 何をしているのかと思いながら、私の足は自然と生徒用玄関へと動いていた。


     ☆


 私は少し駆け足で彼女が横になっているベンチへと近づき、静かに声をかける。
「なお?」
 呼びかけられたなおは少し間を置いてから腕を動かし、焦点の合っていない視線を私へと向けた。
 最初は誰か判っていない様子であったが、すぐに理解したのか口元に笑みを作りながら声を漏らした。
「ああ……れいか……」
「こんなところで何をしているのですか?」
 さらに問いかけると、なおは重たそうに体を起こし、私から見てベンチの右側へと座り直した。
 眠たそうな瞼を擦りながら、彼女は私を見る。
「うん……もうすぐ部活が始まるから三十分くらい寝ようと思ったんだけど、ベンチは寝心地が悪くてね」
 はにかみながら困ったようになおは告げた。 
「そんなに体調が優れないのなら、今日は部活動を休んだほうが良いのでは?」
「別に体調不良って訳でもないし、休むのはちょっとね……少し眠ればなんとかなると思うよ」
 変に生真面目。私自身も人のことは言えないが体調が優れないのなら休めば良いのに。
 あまり寝不足というのを経験したことがないので、その辛さは判らないが、なおはそこまで深くは考えていないようだ。
 だけど彼女はサッカー部員である。運動系の部活動で体調が優れないのはあまり宜しくはない。
 しかし、サッカーは彼女の好きなことでもある。あまり私から無理に止めたくはない。
 というか、サッカー部は部室があるのではないだろうかと思い出す。ここで眠るよりは部室のほうがマシのように思えた。
 その疑問を率直に伝える。
「サッカー部の部室で眠ったほうが良いのでは?」
「う〜ん……まだ鍵が開いていないし、たぶん騒がしいし……ふあぁ……」
 そう言いながらなおが苦笑していると、彼女は大きく口を開けて欠伸をする。
 たぶん、鍵を職員室に取りに行くのが面倒なのだろう。
 それよりも睡魔のほうが勝っているのか。
 ここで部室の鍵を取りに行っても睡眠時間が削られるだけど、あまり好ましい結果にはならないだろう。 
 やはり、ここで睡眠を取らなければいけないようだ。
 なおは寝心地が悪いと言っていた。ならば私が彼女の睡眠を手助けしよう。
「なお、隣良いですか?」
「へ? 別に良いけど、私寝ちゃうよ?」
「いいですから」
 不思議そうに見つめてくるなおの隣に腰を下ろす。スカート越しに硬い板の感触が伝わってくる。
 これでは確かに寝心地は悪そうである。
 まだ私を見つめているなおへと顔を向け、自分の太股をスカートの上から軽く叩く。
「はい、なお」
「?」
「私の膝を枕代わりにして良いですよ」
 そう言うと、なおはきょとんとした表情で頭を傾げた。
「え、良いの?」
「だってそんな状態じゃ部活に集中できないでしょう?」
「そうだけど……れいかも忙しいんじゃないの?」
「大丈夫ですよ、なおもそんなに寝ませんよね?」
「まぁ、そうだけど」
 今の私にできることと言ったらこれぐらい。
 太股を枕代わりにすれば幾分かマシになり眠られるかもしれなかった。
 なおは私の行動に躊躇しているようだが、瞳は眠たげな様子を見せていた。
 そして周囲をキョロキョロ見回すと、頬を紅潮させながら座る位置をずらした。
「そっか……じゃあ、お言葉に甘えて」
 そう言いながら、なおは体を横にして頭を私の膝に乗せた。太股に重みが加わるがあまり辛くはない。これなら大丈夫だろう。
 下を向くと彼女の顔がすぐ近く。いつもより大きな目や唇が視界に入った。
 視線が彼女のものと重なる。大きくて可愛らしい瞳。
「どうですか?」
「うん、さっきよりかなり良いよ」
 問いかけるとなおは明るい笑顔で頷いた。
 心から嬉しそうな表情。
 その表情を見ていると心が和んだ。
 先ほどまでしていた彼女への心配もすっかり薄れた。
「そうですか、良かったです。ゆっくり眠ってください、三十分経ちましたら起こしますから」
「迷惑かけてごめんね、れいか」
「良いのですよ、なおはいつも頑張っていますから、学校では私を頼ってくださいね」
「うん、ありがと」
 そう頷きながらなおは瞼を静かに閉じる。
 笑う彼女はサッカーをしている時や、弟さんたちの面倒を見ている時とは異なるあどけなさが見えていた。
 いつもは頼りがいがあり、みんなのお姉さんみたいな雰囲気を持っている彼女が私を頼ってくれている。
 こんな私でもなおの役にたっている。
 そう思えると嬉しかった。
 ふと、瞼を閉じている彼女の鼻がピクピクと小刻みに動いた。
 何か匂いを嗅いでいるような仕草。
 何事かと不思議に思っていると、彼女の顔が私のお腹の方向へと向く。
 すると彼女の口元が微笑んだ。
「……れいかって良い匂いするね」
 ポツリと呟いたなお。
 あまりにも突拍子がないことにどう反応して良いのか判らなくなる。
 彼女が言うような良い匂いなどは私自身に自覚がない。
 そんな気になるような匂いがするのだろうかと、袖を自分の鼻に近づけて確かめるが、別に変わったようなことはない。
 なおの言葉に疑問を浮かべ、直接本人へと疑問を投げる。
「そうですか?」
「うん、なんだかとっても……落ち着く……私は、好きだなぁ…………」
 そう彼女は微笑みながら返したが、声が段々小さくなっていき、最後は何を言っているか聞き取れずに寝息へと変わっていた。
 よっぽど眠かったのか口を小さく開けて呼吸にあわせて彼女の体が揺れる。
 遠くから生徒の声が聞こえてくる。
 だけどすぐに静寂が訪れ、なおの寝息だけが耳の中へと入ってくる。
 無防備に眠っているなお。
 私の幼なじみ。
 大切な幼なじみ。
 眠る彼女の頭へ手を当て、起こさないように優しく撫でる。
 彼女の綺麗で瑞々しい髪の毛が指に絡みつく。
「なお……」
 出ているか判らないほど小さな声で彼女の名を呼ぶ。
 だが、眠っている彼女はなんの反応もしない。
 赤子のような無垢な寝顔を見せている。
 暖かい風が中庭の私たちを撫でる。木々の葉が風に揺れる音だけが響く。
 短いけど彼女だけと一緒にいられる時間。
 永遠に続いて欲しい静かな時間。
 この静寂が続いて欲しい、そう思った
 私がこんな気持ちを抱くひと時。彼女もこのひと時をどう思っているのだろうか。
 ぐっすり眠っているからどうも思わないだろうか。
 それとも何か思っているのだろうか。
 ずっと一緒にいるのに、彼女が判らない。
 こんなに近いのに、彼女が判らない。
 だけど彼女が幸せなら私は嬉しい。
 お互いが笑顔でいられればそれで良い。
 私は……ずっと、なおとそんな関係でいたい。

 ――なお、私たちはこれからも友達ですよね。

 答えが返ってこない問いを胸の内に思い浮かべながら、静寂に満ちた周囲の時間が過ぎていった。





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