『大好きだよ、みゆき』

 色彩様々な花が咲き誇り、絵の具のように美しい青空の世界で、紫色の少女は笑っていた。
 淡い幻想のように、夢のようにも思える世界。
 夢ではない現実のこと。
 私――星空みゆきの大切な友達の一人。
 ただ嬉しくって、涙を流してしまったけど、彼女は笑っていてくれた。
 名前の通りのニコニコ笑顔。


    ☆


 濃褐色の革表紙の絵本。
 絵本の中では薄紫色の髪を羽のように頭で二束にまとめている女の子や、黒色の可愛らしい蝙蝠の羽が生えたボールみたいな子が笑顔で笑っている。
 ただ幸せそうで、見ていると心から落ち着いていた。
 女の子の名前はニコちゃん。
 絵本の世界の住民で私の大切な友達。
 私のせいで一時期彼女を悲しませてしまったけど、なんとか笑顔を取り戻せ、改めて友達となった。
 彼女は笑顔でこの絵本の中でボールみたいな子――魔王と一緒に物語を紡いでいる。今も、これからも。
 彼女が幸せならこれでハッピーエンド、そう思っていた。
 だけど、最近、ニコちゃんに会いたいと思うことがあった。
 あれ以来、私は彼女に会っていない。
 こちらから絵本の世界へは行けないし、ニコちゃんもこっちの世界へ来てくれない。
 ニコちゃんはニコちゃんで忙しいんだろうと思いこむが、もしかしたらこちらにもう来られないんじゃないかと不安に思っていた。
 ただ、会いたかった。
 せっかく友達になれたんだから、もっとお喋りをしたかった。
「みゆき、どうしたクル?」
「……ううん、なんでもないよキャンディ」
 色々なことを考えながらベッドの上で絵本を見つめていると、白いもこもこしたぬいぐるみのような友達のキャンディは隣で私を見上げていた。
 こんな暗い気持ちではハッピーが逃げてしまう。
 ニコちゃんが幸せならそれで良いじゃない。
 言い聞かせるように笑顔を作り、キャンディの頭を撫でる。
 まだ会えないと決まった訳ではない。
 いつか会える。期待だけでもしておこう。
 そう思い時計を見るとまだ午前十時過ぎ。
 今日は土曜日なので学校もなく、宿題もなかったのでやることはない。
 他のプリキュアのみんなとどこかに出かけようかな。
 あかねちゃん、やよいちゃん、なおちゃん、れいかちゃん。一緒にプリキュアとして戦う大切な友達。
 予定を聞いていないけど、たぶん誰かしらは時間があいているんじゃないだろうかと淡い期待を持つ。

 ――――――――ー。

 絵本を閉じようとした時、誰かに呼ばれたような気がして体が止まる。
「誰?」
 と問いかけるが反応は返ってこない。
 キャンディは私の声に首を傾げて「みゆき?」と呟いている。
 確かに今、呼ばれたような気がするけど……と眉を顰めると、持っていた絵本が急に光りだした。
「えっ、な……なにっ!?」
 驚きながらも大切な友達が描かれた絵本を放り出すことはせず、光輝くページへと視線を集中させる。
 内心恐々となりながら何が来るかと身構えようとした時、それはページから発せられた光から飛び出すように現れる。
 女の子、羽のような薄紫の髪を靡かせ、首には紫色のチョーカーをつける。紫色のキュロットつきのワンピースの胸元には真っ白な羽のような飾りがついており、靴やハイソックスは服と同じ色の物を履いていた。
 飛び出してきたそれはちょうど逆さまになりながら私に背中を向けるように宙を漂い、混乱する頭では誰かと理解することはできなかったが、すぐに飛び出したそれが重力に従うように私めがけて落ちてきた。
「ほげっ!!」
 避ける間もなく落ちてきた相手は背中から私の胸へと落ちてきて、蛙が潰れたような声を吐き出してしまう。
 重さに押されてベッドへ押し倒され、一瞬お星様が目の前を漂った。
 ベッドのお蔭で痛みは少ないものの、胸回りの鈍い痛みに目を回してしまう。
「いたたた……いったいどうなって……みゆき!? だ、大丈夫!?」
 視界がぐるぐると回っている時、その声は目と鼻の先から聞こえてきた。
 ハッと混乱していた意識が戻り、声の主へと視線を送る。
 胸に落ちてきたその相手は慌てた様子でそこから退き、心配した瞳をベッドに横たわる私に向け、酷くオロオロとした言動を見せていた。
「ご、ごめん、まさか絵本を読んでいる時とは思わなくって……」
 羽のような薄紫色の髪を揺らしながら、女の子は喋った。
 夢のように思えた光景。
 だけど胸の痛みはまだ残っているから違う。
 読んでいた絵本の中と同じ姿をしている女の子が、私の目の前にいた。
 私は彼女の名前を漏らす。
「ニコ……ちゃん……?」
「え? う、うん?」
 名前を呼ばれたニコちゃんは、目をまん丸にしながら頷いた。
 やはり目の前にニコちゃんがいる。
 夢でも幻でもない、私の大切な友達のニコちゃん。
 そう理解した時、私は感極まり、寝ている体を起こしてニコちゃんを抱きしめる。
「ニコちゃん!!」
「えっ、ちょ、ちょっとみゆき!?」
 突然のことに驚いたのかニコちゃんの焦った声が聞こえてきた。
 夢じゃない。会いたいと思っていた相手にまた会えた。
 それだけでも考えると涙が流れ出そうになる。
 もう会えないと心の片隅で予想していたけど、そんなことはまったく関係なかった。
 抱きしめるニコちゃんは暖かく、花の香りがして柔らかい。
 高まる気持ちは未だ収まらず、ちゃんとニコちゃんの顔を見たくなり、抱きついていた体を離す。
 少し戸惑い、頬を紅潮させるニコちゃんは前に会った時と同じ顔だった。
「久しぶりだね! 私、ニコちゃんに会いたかったんだよ!!」
「キャンディもクル!!」
 私とニコちゃんの隣でキャンディが跳ねる。
 ニコちゃんは「うん、私も」と微笑み、前と変わらない優しい笑顔を作っていた。
 その笑顔を見ると、気持ちが嬉しくなり、私も自然と笑顔になる。
 先ほどまでの暗い気持ちが嘘のように晴れた。
 もう今の時点でハッピーな気持ちとなり、ニコちゃんのことを考えると今日一日楽しいんじゃないかと期待してしまう。
 そう長く離れていた訳ではないけど、会いたいが会えない気持ちのせいで喜びは人一倍ある。
 ふと、ニコちゃんはなぜこちらの世界に現れたのだろうか、という疑問が浮かんだ。
「そういえば、どうしてこっちに?」
「うん、みゆきに会いたかったから」
「本当!? 嬉しい!!」
 彼女の言葉でさらに気持ちが高まり、反射的に再びニコちゃんの華奢な体を抱きしめる。
 嬉しい、ニコちゃんに会えて嬉しい。
 もっとこうやって彼女の存在を感じていたい。
 嬉しいな。
 嬉しい。
「みゆき、苦しいよ」
「あっ、ごめんね」
 耳元でニコちゃんの声が響いた。
 いけない、自分だけ盛り上がっていては迷惑だったよね。
 慌てて抱きしめていた腕を解き、ニコちゃんとの距離をあける。
 ニコちゃんは頬を赤くしながら苦笑して、私の行動に戸惑っている様子。
 落ち着かないとまた抱きつきそう。
 頭ひとつ分、小さい彼女は絵本の登場人物だけあって可愛かった。
 現実離れした容姿をしているけど、どこか私たちと似ている女の子。お人形さんのように繊細な彼女は見ていても飽きなかった。
「そうだ、せっかく来たんだから他のみんなにも報告しないと!」
 ずっと見ていていたいけど、それではニコちゃんが困ってしまう。
 それにこっちの世界に来たならみんなへと報告しないといけない。きっとニコちゃんに会いたがっているだろうし。
 ベッドから降りてニコちゃんへと振り向くと、目をまん丸にして私を見ていた。
 早くみんなに報告したい気持ちが高まり、彼女へ向かって手を差し出す。
「行こう、ニコちゃん」
「……うんっ」
 少し間を置いてから、ニコちゃんは私の手を取り立ち上がった。
 ニコニコ笑顔の彼女の手はとても暖かく、私と違って細く綺麗な指だった。
「キャンディを忘れないで欲しいクル!!」
 あっといけない、素で忘れていた。
 ニコちゃんのことばかりで頭がいっぱいでキャンディまで気が回らないけど、仕方ないよね。


     ☆


 お出かけには最適の晴天。
 みんなの家にニコちゃんを連れていき再会を喜ぼうと思い、なおちゃんとれいかちゃんは出かけたらしく不在。
 次にやよいちゃんの家へ向かったが、どうやらこちらも出かけているようで家にはやよいちゃんのお母さんしかいなかった。
 どこかに絵でも描きに行っているのだろうか。
 事前に連絡しておけば良かったなぁ、と今更な後悔。
 まぁその内すぐ会えるだろうと頭を切り替えると、ぐぅとお腹の虫が鳴いた。
「みゆき、お腹空いているの?」
「うん……いつの間にかお昼だしね……」
「キャンディもお腹空いたクル……」
 バッグに収まっているキャンディもお腹の虫を慣らしていた。
 時刻はお昼からかなり過ぎていて、お陽様もてっぺんから傾いた位置で輝いている。
 家でお昼を食べてから来たほうが良かっただろうかと今更後悔してしまう。
 お小遣いはそれなりに持っているので、ニコちゃん分のお金もあるからどこかで食べないとな、と思いながら食事場所を頭の中で探してみる。
 お腹も空いてもウルトラハッピー、なんて調子の良いことにはないから困った困った。
 美味しいお店、美味しいお店。
 美味しい……美味しい……お……お?
「あっ、そうだ」
「どうしたの?」
「美味しいお店なら知っているから行こうか!」
 そうだよ、なんで忘れていたんだろうか。
 今の状況にぴったりの場所があるじゃない。
 ニコちゃんは不思議そうに首を捻っているけど、私は彼女の手を握って目的の場所へ向かう。


 向かった先は商店街。
 休日になると家族連れなども多くなり賑やかになる。
 飲食店もいくつかあるので食事には困らない場所。
 そして私とニコちゃんはとあるお店の前へ到着する。
 二階建ての建物の入口には『お好み焼き あかね』と書かれたのれんが垂れ下がっていた。
 入口の横にはお品書きが書かれた小さな黒板が設置されており、立っていても香ばしい匂いが鼻を撫でてくる。
「ここ?」
 横に並ぶニコちゃんが聞いてきたので、私は「うん」と頷きながら、ニコちゃんの前に立って入口の戸を開ける。
 店内は座敷席とカウンター席に別れており、昼時をかなり過ぎたぐらいだったので、店内にはお客さんはほとんどおらず、夕食時までの休憩時間のような空気を醸し出していた。
「いらっしゃーい」
 カウンター席に隣接している厨房から女の子の声が聞こえる。
 そこには肩まで伸びた髪を後ろでひと束にまとめている子がお好み焼き用のヘラを握りながら、明るい笑顔を振りまいていた。
 エプロンを着た彼女は私の姿を見ると少し驚いたような反応を見せ「おっ、みゆきやないか」と笑った。
 彼女はこのお好み焼き屋の看板娘で私の大切な友達のあかねちゃん。
 ここならあかねちゃんにニコちゃんを紹介できて、お腹も満腹になれるから、これぞ一石二鳥という場所だった。
 あかねちゃんのお好み焼きは美味しいからきっとニコちゃんも喜ぶに違いないし、ウルトラハッピー!
「あかねちゃんこんにちはー、ってやよいちゃんも?」
 厨房に立つあかねちゃんの正面のカウンター席に座っていた女の子も振り向き、その顔を見て私は声を漏らす。
 肩まで伸びたふっくらとした髪に白色のヘアバンドをつけ、黄色い長袖のワンピースを着た私とあかねちゃんの友達のやよいちゃんだった。
 出かけているから会えないかと思っていたが、まさかここで会えるとは、手間も省けて本当にハッピーだ。
 やよいちゃんはもぐもぐとお好み焼きを食べているようで、何度か口を動かした後、声を出す。
「みゆきちゃんどうしたの?」
「いやー、ちょっとお腹空いて」
「おお、それならうちが腕を振るってあげるで!」
 腕まくりをしたあかねちゃんは、いつも通りの元気な様子。
 きっとこの二人がニコちゃんを見たら驚くに違いない。
 ニコちゃんはちょうど開けた戸の影に隠れていて二人には見えていないようだ。
「そ〜れ〜と……二人を驚かせることがあるんだ〜」
 ああ、きっとびっくりするだろうな。
 なんだか想像していると楽しくなってうきうきしてきた。
 はやる気持ちが抑えられなくなり、口元が笑みを作ってしまうが止めることはできない。
 私の表情を見て、眉間にシワを作って気味悪がるようなあかねちゃんの視線が若干痛い。
「なんや、変な笑いして……なんか悪いもんでも拾って食ったんか?」
「あかねちゃん、さすがにみゆきちゃんでも……ないよね、みゆきちゃん?」
 私って、普段どんな風に思われているんだろう……。
 しかし、泣いている訳にもいかない。
 今からこの疑惑の視線を向けている二人を驚かせるのだから。
「……こほん」
 視線を無視するように私はひと息ついた後、一旦二人から見えない位置にいるニコちゃんの背後へと移動し、その背中を優しく押す。
 ニコちゃんは「え? え?」と少し戸惑っていたようだけど、特に問題もないだろうと思い、二人の見える位置へと移動させた。
「じゃーん!」
 ちょっと遅れて私が声を出しながら店内を覗くと、予想通り二人は目をまん丸にして驚いた表情を浮かべていた。
「えっ!? ニコちゃん!?」
「ニコ!? えらい久しぶりやないか!」
 嬉しい反応に私は先ほどの貶されて悲しくなった気持ちは一気に吹き飛んだ。
 これだよこれ、この反応を待っていたんだよ。
 驚かれているニコちゃんはちょっと照れているような様子で、視線を右往左往させていたがすぐに正面へと戻して微笑んだ。
「うん、二人とも久しぶり」
「どう? ビックリした? した?」
「そりゃあビックリしない理由があらへんわ。というかどうしたん? なんでこっちにおるん?」
「えっと……みんなに、会いたかったから」
 あかねちゃんに聞かれたニコちゃんはちょっと戸惑ったような様子だった。
 なんだろうと思っていると、あかねちゃんが「そーか!」と声を弾ませながら嬉しそうに笑みを浮かべた。
「嬉しいこと言い寄るな〜! みゆきもうちのお好み焼きを勧めるとは判っとるなー」
「えへへ、それほどでも〜」
 握り拳で親指を立てながらあかねちゃんが誉めてきたので、つい嬉しくなって後頭部を撫でて照れてしまう。
 いやー、私は今日ハッピーに恵まれているよ。
「まぁ、適当な場所に座りぃ。忙しい時間も過ぎたし、ゆっくりしてってやー」
「ニコちゃん、私の隣があいているよ。こっちこっち」
「うん」
 やよいちゃんに手招きされてニコちゃんがカウンター席へと向かう。
 ああ、ニコちゃん可愛いな。
 絵本の登場人物だけあって仕草が全部可愛い。
 こうやって一緒に食事をするのも初めてだし、ハッピーすぎて困っちゃう。
 あかねちゃんは早速私たち二人分のお好み焼きを焼いてくれた。
 相変わらずヘラ捌きは上手で曲芸のようにお好み焼きが宙を舞う。ニコちゃんも初めて見るのだろうか目をキラキラと輝かせながら「おーっ」と時たま言っていた。
 お好み焼きは絵本に出てこないし珍しいのだろう。
 子供みたいに見つめている彼女は見た目相応。
 慣れた手つきであかねちゃんが仕上げたお好み焼きを皿に乗せて、「お待ちどうさん」と言いながら私とニコちゃんの前に置いた。
 ニコちゃんは最初どう食べて良いのか判らなかったようで、私のほうへ何度か視線を向けてきていた。
 うん、これは手本を見せないとね。
 と言ってもお好み焼きを食べるのに手本も何もないけどね。
 私はお店に置いてある箸を掴み、鰹節が踊るお好み焼きをひと口サイズに切ってから口に放り込む。
 キャベツや豚肉の味も失われずに若干の噛み応えのある触感、鰹節の風味もほど良く、ぴりっと利いたソースの味も合わさりお店でしか味わえない格別のお好み焼き。
 やっぱりあかねちゃんのお好み焼きは美味しい。何個食べても飽きないよ。
 顔を綻ばせながら、ちらっとニコちゃんのほうを見ると、私の食べ方を見て「なるほど……」と呟きながら見よう見まねで同じように箸を掴んだ。
 意外にちゃんとした箸の持ち方をしているが、よく考えてみれば絵本の世界では桃太郎さんや一寸法師さん、浦島太郎さんとか日本食を食べている人が多いし、もしかしてそういうのはひと通り教えてもらっているのだろうか。
 そう思っているとニコちゃんは私が切ったよりもさらにひと回り小さくお好み焼きを切った。
 そしてそのまま口の中へと運び、何度か頬が揺れる。
「……美味しい!」
 口元を指先で隠しながら、驚いたようにニコちゃんは呟いた。
 予想通りで嬉しい反応にあかねちゃんへと視線を向けると、彼女も同じことを考えていたのか「へへ」と笑ったので、私は笑い返した。
「腹一杯食べていきー」
「うん、ありがとう、あかね」
 満面の笑顔を浮かべながらニコちゃんはお好み焼きを食べていく。
 ああ、そうだよ、ニコちゃんのこの笑顔を私は見たかったんだ。
 やっぱり友達と一緒に何かをやるのはハッピーになれるなぁ。
「本当、あかねちゃんのお好み焼きは最高だね、ウルトラハッピー! あっ、はい、キャンディも」
 バッグから顔を出しているキャンディへ、他のお客さんに気づかれないようにそっとお好み焼きを食べさせると、「美味しいクル」と言って顔を綻ばせる。
 美味しい物を食べるとそうなるよね、みんな。
 うきうきした気持ちでお好み焼きを食べて、さらにうきうきした気持ちになったので、あかねちゃんを誉めちぎる。
 ありがとう、あかねちゃん! 貴女のお蔭で私は今日最高の一日になっています!
 まんざらでもない様子であかねちゃんが頬を赤くしながら、人差し指で鼻の下を擦る。
「みゆきは嬉しいこと言うてくれるなぁ。しかし、ニコの口に合うということはこれは絵本の世界でも店を出せるかもしれんなぁ……」
「そうなったらあかねちゃんが店長さんだね! よっ、あかね店長!」
「なっはっはっは! 任しときー!」
 舞い上がってくるとその場の雰囲気と勢いで楽しくなってくる。
 あかねちゃんはノリが良いからさらに楽しい。
 私たちのやりとりを見て、ニコちゃんとやよいちゃん、他のお客さんに見えない位置にいるキャンディが笑っている。
 うん、これこれ。
 やっぱり笑顔が一番だよね。
 今朝の会えなくて暗くなっていた気持ちが嘘のようだ。
「そういえば、みゆきちゃんとニコちゃんはこの後、どうするの?」
 するとやよいちゃんが何気なく聞いてきた。
 ああ、そうだった、ニコちゃんをみんなと会わせる計画はまだ半分しか終わっていなかった。
 残り二人だが、なおちゃんとれいかちゃんも家にはいなかった。
 家で待ちかまえていれば会えるとは思うが、できる限り早くニコちゃんと会わせたい気持ちでもあった。
「うーん、後はなおちゃんとれいかちゃんにニコちゃんのことを教えようと思っているけど、二人とも家にいなくって……」
 はてさてどうしたものかと頭を抱えていると、やよいちゃんは「ああ」と何かを思い出したように呟いた。
「あの二人ならたぶん近くでショッピングしていると思うよ」
「へ、そうなの?」
「うん、今日は商店街でスケッチをしに来ていたんだけど途中二人に会って、これから服を買いに行くって言っていたよ。たぶん、今いると思うよ」
 それなら待つ手間が省ける。
 良いことはやはり続くんだなぁ、と思い情報提供してくれたやよいちゃんへお礼を告げる。
「そっか、ありがとうやよいちゃん!」
「どういたしまして」
 にこっと笑うやよいちゃん。
 良い友達を持って本当に良かった。
 すると「うーん」とあかねちゃんが唸った。
 何事かと思い顔を向けると、彼女は眉を八の字にして残念そうな表情を浮かべていた。
「どうせなら二人の驚く姿を見たかったけど、うちは店の手伝いがあるからなぁ……」
 ああ、なるほど。
 私もあかねちゃんややよいちゃんの驚く姿を楽しみにしていたから、あかねちゃんも見たいんだな、となんとなく彼女の気持ちが判る。
 だけど家の用事があるならそちらを優先しないと。
 あかねちゃん、私がしっかり二人の驚く表情を目に焼き付けてくるからね!
 心の中で決意していると、諦めたように肩を落としたあかねちゃんは、ふと何かを思い出したようにニコちゃんへと視線を移動させる。
「そういえば、ニコは明日もいるんか?」
 何気ない質問。
 そのことに関して私はあまり考えていなかった。
 当然いるものと考えていたため、なんの疑問も浮かばない。
 しかし、考えてみるとニコちゃんがいつまでいるかなんて知らなかった。
 できることならずっと一緒にいたいが、それは私のわがまま。
 彼女にだって用事はあるだろうし、時間は待ってくれない。
 もしかして今日だけなのだろうか。
 それだったら嫌だな。
 楽しい気持ちに影がかかる。
 不安に思いながらニコちゃんへと視線を向けると、彼女は一瞬私と視線を重ねた後、すぐにそらしてあかねちゃんを見て頷いた。
「……うん、いるよ」
 ニコちゃんは微笑みながら頷いた。
 なんだろう。
 ニコちゃんがまだいるという嬉しい言葉のはずなのに、なんだか素直に喜べなかった。
 それがなぜなのかは判らなかったが、彼女の声や表情を見たら、胸騒ぎとも思える感覚が胸をつつく。
 なんだろう、なぜそんなことを思うのか。
 正体の判らない不安。
 嫌な感覚。
 ハッピーじゃないような、判らない。
 私より小さくて、可愛いニコちゃん。
 だけど今はその姿がさらに小さく、儚くも見えた。
 笑う彼女を見つめていると、やよいちゃんが、ぽんっ、と手を叩いた。
「じゃあ、明日みんなでふしぎ図書館に集合しようよ」
「それがええなー、なおやれいかもたぶん大丈夫だろうしな。みゆきとニコもそれでええな?」
 あかねちゃんの提案にやよいちゃんも頷き、急遽明日の予定が決まった。
 今日は無理でも明日にみんな揃うなら全然構わない。
 ああ、明日も楽しくなりそう。
「もちろんだよー二人には私から伝えておくね! ニコちゃんも大丈夫だよね?」 
「うん、大丈夫だよ……」
 ニコちゃんはそう言って微笑んだ。
 やっぱり、なんか変な感じが胸の中を動く。
 笑っているはずなのに、なんだか別の感情があるようにも見え、ニコちゃんの存在が揺らいでいるようにも思えた。
 気のせいだよね、だって彼女は笑っているのだから。
 不安を誤魔化すように前向きな考えを作る。
 きっと舞い上がってしまい、それが変になっているだけかもしれない。
 うん、そうだよね。
 そうそう。
 私は気を取り直して、なおちゃんやれいかちゃんがいるお店へ行こうと決める。
 するとテーブルでお好み焼きを食べきったキャンディが、膨れたお腹を天井に向けて寝転がっていた。
「ほら、キャンディ行くよ」
「えー、もっと食べたいクル……」
「これ以上は私の財布に厳しいから」
「クルー……」
 お小遣い制の中学生には外食は大変なの。


     ☆


 不満を漏らしていたキャンディはバッグの中に入ると、どうやら眠ってしまったようで、ニコちゃんとの二人きりの時間を堪能できた。
 やよいちゃんに教えられた場所は商店街でもっとも人通りが多いところ。
 さすがに土曜日だけあってショッピングに勤しむ人が多く、活気に溢れていた。
 その服屋さんは個人経営だけどお店の人のセンスがよくて、周辺に住むの女の子が好んでやってくる人気店。
 私もよくお母さんと買い物に来ているので、馴染みとも呼べるところであった。
 店頭には雑誌で取り上げているような可愛らしい服が展示され、お値段もリーズナブル。
 そう、可愛くてお手軽な値段で流行に近い服を買える素晴らしいお店!
 お金がない学生にはなんて優しいお店なんだろうか!
 お金に余裕があったらすぐに買いたいほどだが、現状そんな余裕はないし、あったとしてもたぶん絵本にお金をかけちゃうだろう。
 趣味が優先、ファッションは二の次なの。
 と、いけないいけない。
 今はそんなことを考えている時じゃなかった。
 後ろにぴったりついてきているニコちゃんをちらっと見て、ついてきていることを確認する。
 ふと、周囲を歩く人の視線が気になった。
 なんだろうかと思ったが、考えてみるとニコちゃんが見られているのは当たり前だった。
 羽のような髪に、御伽話の登場人物みたいに可愛らしい姿。そんな子がいたら目立つに決まっている。
 ニコちゃん、嫌じゃないかな、と思ったが彼女はあまり気にしていないようで私の後をついてきていた。
 早く終わらせて人が少ない場所へ行こうと思い、私はすぐに店内へとこっそり視線をやった。
 お客さんは多く、若い女の子ばかり。
 たぶん同じ中学の子や高校生の人だろう。
 よーく目を凝らしながら探すと、ポニーテールでボーイッシュな後ろ姿の女の子とその隣にいるロングヘアーの清楚な雰囲気を放つ女の子を発見する。
「あっ、なおちゃん、れいかちゃん見つけた!」
 私は友達であるなおちゃんと、れいかちゃんを見つけて声を張り上げると、ちゃんと聞こえたのか二人揃って振り返った。
「あれ、みゆきちゃん?」
「あら、みゆきさん」
 さらに二人は揃って声を上げ、私を意外そうに見ていた。
 なんでこんなところにいるのかと疑問に思っているような表情を浮かべたが、すぐに私の背後にいるニコちゃんに気づいたのか目を見開いて驚きの表情を浮かべる。
「って、ニコちゃん!? どうしたの!?」
「ニコさんじゃないですか! どうされたのですか!?」
 やっぱり二人揃って声を上げる。
 本当に仲が良いなぁ。
 その光景が微笑ましくなってきたが、私は当初の目的を果たすため、ニコちゃんの手を握って二人の元へと優しくエスコートしようとする。
 彼女の手を握った時、暖かい温もりを感じると同時に、ニコちゃんが「あっ」と聞き取れないほど小さな声を漏らしたように聞こえた。
 かなり微かな声だったので、気のせいかなっと思いながら店内を移動する。
 そしてなおちゃんとれいかちゃんの正面へと移動すると、私はニコちゃんの隣に並びながら、二人の反応を伺うように問いかける。
「ふふーん、驚いた?」
「そりゃあ、驚くよ、いやー久しぶりだね」
「お久しぶりです」
 やっぱりあかねちゃんややよいちゃんと同じで、最初は驚くけどすぐに笑顔でニコちゃんを受け入れてくれる。
 うんうん、みんな友達と会えて嬉しいもんね。
 いやー、この笑顔を見られて私は満足だよぉ。
 つい釣られて顔が緩んでしまうと、ニコちゃんも二人の言葉に笑顔で応えた。
「なおとれいか、久しぶり」
 ああ、ニコちゃん本当に可愛いなぁ。
 私が彼女と初めて会ったのはかなり昔のこと。
 その時は今みたいにこんな話したりはできずに、絵本越しに彼女を見ているだけだった。
 絵本の世界の主人公。
 私の憧れの存在で、私に笑顔でいることを教えてくれた大切な存在。
 笑顔の彼女を見ていると、本当に心が弾んだ。
「そういえば、二人とも新しい洋服を買いに来たの?」
 話題を増やすため、なおちゃんとれいかちゃんに話しかけると、なおちゃんが頷いた。
「うん、新しい服が欲しくってね」
「時間があいていましたので、私はなおの付き添いです」
「そっか……」
 良いな、私もそろそろ新しい服が欲しいかもしれない。
 だけど余裕なんてない。
 お母さんにおねだりしてみようかな、望みは薄いけど。
 しかし、なおちゃんとれいかちゃんは本当に仲が良いなぁ。
 幼馴染らしいんだけど、学校では席は隣同士、休憩時間もほとんど一緒、部活が違うはずなのに下校時はいつも一緒に帰っているほどだ。
 仲が良い。幼馴染だから、とかそんな簡単な言葉で済ませそうにない雰囲気をひしひしと感じていた。
 二人はそういうことを明言していないけど、きっと。
 ふふーん、みゆきさんは前々からこの二人には何かしらあると感じていますよ、女の子はこういうのに敏感なんですから!
 だけど、ここで私が追求しても変な空気になるのは間違いなかったので、にやける感情を我慢する。
 私、二人のことを応援しているからね!
 そう心の中で叫んでおく。
「あっ、そうだ二人とも」
 そして伝えなければいけないことをひとつ思い出した。
 なおちゃんとれいかちゃんが首を捻りながら、「何?」という様子で私を見てくる。
「明日、集まれる? あかねちゃんややよいちゃんも併せて、みんなでニコちゃんと遊ぼうと思うんだけど」
「おっ、いいね、私は大丈夫だよ。れいかは?」
「はい、大丈夫ですよ」
「よーしっ、じゃあ、明日ふしぎ図書館でね!」
 予定通りの返答を聞いて、私が集合場所を告げると、二人は頷いて応える。
 確実に明日も楽しくなることが判り、気分が舞い上がる。
 ああ、今も楽しいけど明日も楽しみだ。
 明日はみんなで何しよう、ニコちゃんを交えてお喋りかな。
 それともどこかにショッピングとか、私たちの町の案内でも良いかもしれない。
 考えるだけで楽しくて、困っちゃう!
 しかし……これで目的は達成した訳だが、どうしよう。
 やることがなくなってしまった。
 なおちゃんとれいかちゃんは買い物中だから邪魔するのも悪いし。
 私だけで案内とか、なんだか迷惑かけそうで怖いし、あまりしたくはない。
 だけど、ニコちゃんをこのまま放置なんて申し訳なくなってくる。
 どうするか。
 どうするか。
 って、そうだ、私たち、今服屋にいるんだった。
「そうだ、ニコちゃんに似合いそうな服を探してみようか!」
「え?」
 私はニコちゃんを絵本の中の姿でしか見たことがない。
 容姿の良さからきっとどんな服を来ても可愛いに違いない。
 さらにこっちの世界の服を着れば人混みを歩いていてもある程度誤魔化せるかもしれない。
 どうせ服屋さんにいるならそのチャンスを生かすしかないではないか。
 お金ないけど!
「と言っても、買う余裕なんてないから見るだけだけどね……ごめんね」
「ううん、ありがとう、みゆき」
 期待させておいて落胆させてしまったかと思ったが、ニコちゃんは優しく微笑んでくれた。
 心から嬉しそうに笑っている。
 ああ、本当に良い笑顔をするなぁ。
 きらきらと煌めくような笑顔。
 綺麗な笑顔に頬や胸が熱くなってくる。
 本当にニコちゃんが来てくれて良かった。
 こんなにも楽しくて暖かい気持ちになるなんて、ハッピーで死んでしまいそう。
 私が彼女のために服を買ってあげれたら、もっと笑ってくれるんだろうな。
 だけど、無理な物は無理。
 ああ、残念。
 でも、これは将来買ってあげるという下見かも。
 そうだよ、将来のための下見だよ、うん、そう、下見。
 いつか、きっと、買うはずだから。
 たぶんね。
 そう思いながら私は手近にあるニコちゃんへと似合いそうな服を探していく。
 なおちゃんとれいかちゃんも微笑みながら、自分たちの買い物を再開したようだ。
 ニコちゃんは興味津々と言った様子で私をその可愛らしい瞳で見てきている。
 うう、緊張するなぁ。
 だけどここは私のセンスが試される。
 よーしっ、頑張るぞっ!


    ☆


 空は橙色に染まってもうすぐ夜がやってくる。
 服を買って満足ななおちゃんと、喜ぶなおちゃんを見て嬉しそうなれいかちゃんと別れて、私とニコちゃんは自宅へ帰っている途中だ。
 先ほどまで、ニコちゃんに似合いそうな服を探していたけど、本当に彼女は可愛らしい服が似合っていた。
 体のラインが見える服よりかは、だぼっとした余裕のある服やスカートが非常に合っており、絵本のお姫様のようなドレスが似合うんだろうな、と何回も思った。
 しかし、そんな物が置いてある訳もなく、仕方なく妄想を繰り返すしかない。
 目星は何個かつけたから、いつか買ってあげよう。
 そう心の中で決めて、私は隣を歩くニコちゃんへと話しかける。
「今日は楽しかったね、ニコちゃん」
「うん、ありがとう、みゆき」
 私の声に彼女は頷きながら嬉しそうに微笑んだ。
 橙色の夕陽を浴びている彼女は、また違う美しさを感じる。
 ニコちゃんも楽しんでくれたようで満足満足。
 しばらく他愛もない話を続けていると、自宅前へと到着する。
 夕陽に照らされて庭の花も綺麗に輝いていた。
 何か重要なことを忘れているような気がするけど、まぁ良いか。
 今日は色々歩き回ったから疲れたなぁ。
 ご飯食べて、お風呂入って、ニコちゃんとお喋りして、一緒に寝て、とまだまだやることはいっぱいある。
「ただいま〜」
 楽しい気分に浮かれて玄関の扉を開け、家の中へと声を上げると、廊下の奥から「お帰り、みゆき」と見慣れた家族が顔を出す。
 私の自慢のお母さん。
 エプロン姿で料理中だったのかな。
 室内を漂う香ばしい匂いはお腹の虫を鳴らし、早く食べたい気持ちに駆られる。
 今日のご飯はなんだろうな。
 お母さんの料理美味しいし、楽しみだなぁ。
「あら、その子は?」
「へ?」
 妄想を楽しんでいると、お母さんが不思議そうに首を捻っていた。
 言われて私はお母さんが見ている視線を辿り、背後へ振り返ると、ニコちゃんと目があった。
 彼女は気まずそうに、困ったような表情をしていた。
 なんでそんな表情をしているのか。
 うーん、なんだろう。
 うーん、うーん、うーん。
 ……あ、そうだ。
 嬉しさで舞い上がっていてニコちゃんのこと忘れていた。
 お母さんにニコちゃんのことを全然説明していなじゃん。
 だけど、なんて説明すれば良いんだろう。
 まさかそのまま絵本の世界の子なんて説明する訳にもいかないよね。
 娘の頭が変になったなんて思われたらたまったものではない。
 家へ帰る前に何かしら考えておけば良かったのに……。
 ああ、私のバカ!
 バカバカバカ!!
 いつまでも答えずにいたらお母さんが怪しんでくるに違いない。
 とにかく何か言わないと!!
「えっと……そ、そう! 私の友達のニコちゃん!」
「あらあら、こんにちは」
「こんにちは……」
「そ、そのね! ニコちゃん、外国の人なんだけど、今日は家に誰もいないから、寂しいから家に来るよう誘ったんだけど……大丈夫だよ、ね……?」
 なんだか勢いに任せて喋っているせいか、後半に行くにつれ、言葉に自信がなくなっていく。
 最後のほうなんてもう不安げにお母さんへとお願いするような形になってしまい、内心不安でいっぱいである。
 だけど、お母さんは深くツッコミをいれることはなく、「あら、それは大変ね」と少し驚いたような表情を浮かべると、すぐに笑顔へと変わった。
「みゆきの友達なら歓迎よ。じゃあまず夕食をひとり分増やさないといけないわね」
 そう言うとお母さんはなんの追求もなく、笑顔で頷いて台所へと向かっていった。
 意外にすんなりと信じられたようで、私は拍子抜けしてしまう。
 しかし、すぐにニコちゃんを受け入れてくれたお母さんの対応が嬉しくなって、声を弾ませる。
「お母さんありがとう!」
 姿は見えないけど、ちゃんと伝わったはず。
 良かった、これでニコちゃんと一緒に過ごせる。
 胸をなで下ろしていると、ニコちゃんが私の袖を引っ張ってきた。
「今の、みゆきのお母さん?」
「うん、そうだよ」
「綺麗な人だね」
「うん! 私の自慢のお母さんなんだ!」
 私のことじゃないけど、お母さんを誉められると、なんだか自分のことのように嬉しくなってしまう。
 私の大切なお母さん。
 しっかりしていて、優しくて、美人で、スタイルも良い。親子とは思えないほど、私にとっては完璧で大好きな相手。
 いつかお母さんのようになりたいなと、日々思っているけど、なんだかいつも空回りばかりしているから、遠い道のりだなと思う。
「なんだか、みゆきと似ているね」
 情けなさに嘆いていると、ニコちゃんがぽつりと呟いた。
 意外な言葉に私は素直に驚いてしまい、彼女へと顔を向けると、少し頬を紅潮したように微笑んでいた。
「え? そう? 私、お母さんみたいに綺麗じゃないし、ドジだし、あまり似ていないと思うけど……」
「ううん、似ているよ。私にとってはみゆきとそっくり」
 ニコちゃんにとっては?
 なんだかよく判らないけど、もしかして日々の努力が知らず知らずの内に出ていたのだろうか。
 なんだかお母さんに近づけたような気がして嬉しいな。
 ニコちゃんもお母さんのことを好きになってくれたみたいだし、料理を食べたらもっと好きになるだろうから、反応が非常に楽しみである。
 とにかくこれでニコちゃんが家にいられる理由ができあがった。
 良かった、一緒にご飯を食べられ、一緒にお風呂も入れる。
 さらには夜に一緒の布団に入りながら女の子だけのお喋りが楽しめる。修学旅行以来だなぁ、そういうの。
 って、忘れていた。
 先ほど焦って勢いで喋ったから忘れていたけど、ニコちゃん自体が泊まるなんてひと言も言っていないじゃない。
 彼女の絵本さえあれば行き来は自由なのだから、わざわざ家に泊まっていく必要なんてまったくない。
 さすがに泊まっていくのは無理かな。
 できれば泊まって欲しいな。
 そう思いながら彼女へ不安げな視線を向けながら、自信のない声を漏らす。
「えっと、ニコちゃん」
「何?」
「なんか勢いで泊まっていくことにしちゃったけど、大丈夫?」
「うん。魔王にも泊まるって伝えておいたから大丈夫」
「本当!? ありがとう!」
 やった、と胸の中にあった嫌な思いがそのひと言で吹き飛んだ。
 ふと、喜んだのは良いのだけど、ニコちゃんが言った言葉である存在を思い出した。
 彼女の言った『魔王』という単語。
 そう、名前は恐ろしいように聞こえるが、今では優しいニコちゃんや私の友達。
 絵本の世界での事件を解決した後は、ニコちゃんと色々な物語を紡いでいるはずだった。
 だけど、今はあの黒いゴムボールにコウモリの羽と小さな角が生えた可愛らしい姿はここにはいない。
 ニコちゃんがこっちに来るのだから、一緒に来ても不思議ではないのだけど、最初からいなかった。
「そういえば、魔王は来ていないんだよね、一緒に来れば良かったのに」
 疑問をそのまま彼女へと伝える。
 魔王もいれば楽しいはずなのに。
 なんでだろう。
 そう疑問に思い首を捻っていると、ニコちゃんの表情に少し影が落ちたように見えた。
「……魔王は、待ってもらっているから」
 ぽつりと呟くニコちゃん。
 不安が彼女の瞳で見え隠れしていた。
 何か隠している。
 そう思えた。
 暗い感情ではなく、だけど不安に思っている。
 判らない。
 彼女が何を思っているか判らない。
 私の知らないニコちゃん。
 どこか遠くへ行ってしまいそうな雰囲気。
 空気が重くなったようにも思える違和感。
「ニコちゃん?」
 彼女の名前を呼ぶが、どこか遠く、目の前にいるのにいないような感覚。
 この空気がなんだか嫌だった。
 もっと笑っていて欲しいのに。
 なぜ、そんな表情をしているのか。
 ねぇ、ニコちゃん。教えてよ。
 言葉にならない思いが強くなる。
 なんだか、変。
「みゆき〜、ちょっと手伝って〜」
 その時、台所のほうからお母さんの声が聞こえてきた。
 ニコちゃんもそちらへと視線を向けて、話しかけるタイミングを失ってしまう。
 今の不安はそもそも私の気のせいということもある。
 私はそういうのが嫌いから過敏になっていたのかも。
「あっ、はーい!」
 暗いことは考えちゃダメだよね。
 そう思いながら気持ちを切り替える。
「ごめんね、ちょっと手伝ってくるからニコちゃんは私の部屋で待っていてね」
 前向きに思いながら、お母さんの手伝いへと向かおうとして、ニコちゃんへと振り向くと、彼女は顔を横に振った。
「ううん、私も、手伝うよ」
「え、でも悪いよ」
「大丈夫、何もしないほうが悪いし」
 本当はお客さんなのだからゆっくりして欲しいのだけど、手伝ってくれるのならニコちゃんと一緒に何かをやるという時間が増えて嬉しいし、彼女の思いを無駄にする訳にもいかないので、「うん、じゃあ、お願いするよ」と頷く。
 ニコちゃんは微笑んでいる。
 先ほどの疑問がなかったのように思えるほどの柔らかい笑み。
 やっぱり、気のせいだったのかな。
 だけど、胸の中で何か引っかかっていた。
 首を捻りながらも、私はとりあえず眠っているキャンディ入りのバッグを部屋へと置きに向かう。


     ☆


 お母さんの腕によりをかけた夕食はいつ食べても美味し。
 さらにニコちゃんと一緒に食事ができて、普段の何倍も美味しいようにも思えて、ハッピーな気分でいっぱいだった。
 ニコちゃんもお母さんの料理を美味しいと言って喜んでいたし、楽しい食事になった。
 それで夕食後に私は、
「ニコちゃん、一緒にお風呂入ろうよ」
 と何気なく言った。
 しかし、ニコちゃんはその言葉を聞いたら、「え!?」と酷く動揺した声を出し、しどろもどろな反応を見せてきた。
 頬を紅潮させながら、何か迷っているような様子。
 その反応をなぜしているのか判らず、首を捻っていると上目遣いで小さく頷いて、今は二人で脱衣所で服を脱いでいる途中だった。
 この家で、友達と二人でお風呂に入るなんて初めて。
 脱衣所は若干狭く気をつけないと肩と肩がぶつかりそうになるほどだ。
 暖房器具がないから若干肌寒い場所。
 早く脱いでお風呂に入ろうと思い、服を脱いでいく。
 あとは下着だけの状態になった時、ふと、ニコちゃんが私を見ていたことに気づいた。
 ニコちゃんも服を脱いでいるけど、なんだかゆっくりとしたペース。私って、早いのかな。
 しかし、なんでニコちゃんは私を見ているのか。
 もしかして私の体型を見ているのかな。
 私、そんな自慢できるような体型もしていないし、見てもなんの面白味に欠けると思うんだけど。
 ニコちゃんのほうが小柄で可愛いし、私なんかより断然見ていて楽しい容姿をしている。
 そう思っているとニコちゃんと視線が重なり、彼女は慌てて視線を横にずらした。
 そして彼女の羽のような髪の毛が大きく揺れる。
 ふと、そういえばその髪はどうやってとめているのかが気になった。
 近くで見ても何かでとめているという訳でもなかったし、一度気になると意識がそわそわと落ち着かなくなる。
「ニコちゃんってその髪の毛、どうやってとめているの?」
「ん? 別に何かでとめているって訳じゃないよ」
 そう良いながらニコちゃんが、パチンッとかっこよく指を鳴らす。
 すると羽のようにまとめられていた髪の毛が、その音を聞いてパサッと地面へと垂れる。
「わっ! 凄い!」
 独りでに、魔法のように解けた髪を見て素直に驚きの声を上げてしまう。
 私の反応を見て、ニコちゃんも、ふふんっ、と満足げな笑みを浮かべた。
 まとめていた状態でも脹ら脛近くまで伸びているニコちゃんの髪は、解けたことにより脱衣所の床にくっついてしまう。
 初めて見た髪を解いたニコちゃん。
 見た目の印象が大きく変わり、どこか神秘的で清楚な感じがあった。
 髪を解いただけなのに、なんだか別人のように綺麗だった。
 見とれていると、ニコちゃんは残った服を脱いでいく。
 籠に脱いだ服を丁寧にたたんで入れていき、いつの間にかニコちゃんは何も着ていない姿となった。
 何も着ていないニコちゃんは華奢で無駄な肉がついておらず、肌もシミはなく粉雪のように真っ白だった。
 なんだか羨ましい体だなぁ。
 服で隠れていた部分が多かったので、知らないニコちゃんが見られて少し嬉しくも思え、顔が綻ぶ。
「……みゆき」
 ニコちゃんの裸という珍しい姿につい見とれてしまい、長々と眺めていると急に声をかけられた。
 間抜けな声で「へ? 何?」と顔を上げると、ニコちゃんは腕で胸を隠し、若干背中を見せて体を隠すような仕草をしている。
「あまり、見ないで欲しいな、恥ずかしい」
 そう言われて、私は何も考えずに見つめていたことに気づいた。
 うーん、いけないいけない。
 女の子同士、裸なんて私は気にならないけど、ニコちゃんはあまり嫌なのだろうか。
 自慢しても良いぐらい綺麗なんだけどなぁ、と思いながらも笑って謝る。
「あ、ごめんね、ニコちゃんの体って綺麗だなーと思って」
 そう言うと、さらに彼女は顔を背けて、完全に背中を向けられてしまった。
 まずい、嫌われただろうか。
「ほ、本当にごめんね……」
 慌てて再度謝ると、ニコちゃんは顔を少し動かして私をちらっと見て、ぽつりと呟いた。
「……みゆきのほうが、綺麗だよ」
 そう言って、そそくさと逃げるようにお風呂場へとひと足早く入っていってしまった。
 誉められた……のかな?
 私なんてニコちゃんと比べたら良いところなんてないし、自分では綺麗とは思えなかった。
 でも、誉められて少し自信がついたような気がする。
 とにかくニコちゃんが怒っていないことが判って、私はまだ着けていた下着を脱いで、彼女が待つお風呂場へと入った。


     ☆


 お月様やお星様が静かな夜空で輝いていた。
 周囲の家の灯りは消えており、私の家も灯りはほどんどない。
 薄らと部屋を照らすのはカーテンから差し込む月明かりだけ。
 その僅かな光も部屋にある物の輪郭しか捉えず、ほとんど闇の中と変わらない。
 ベッドに潜り込み、窓の隙間から入ってくる冷たい風から身を護る。
 静かで暗い世界。
 だけど、今日はいつもと違う。
 闇に目が慣れてきて、僅かな灯りでも隣で一緒にベッドへ入っている相手の顔はしっかり判った。
 布団に入り、灯りを消してから少し。
 ニコちゃんは眠る様子もなく、彼女の瞳とまた羽のようにまとまった髪が月明かりに反射しているのが判る。
 寝る時も解いたままでも良いのではないかと思ったが、本人曰くまとめていたほうが寝返りで引っ張らないからだそうだ。
 確かにあんなに長かったら大変そうだ。
 私は寝る時には髪を解いているけど、肩まで伸びている程度なので、そんな困らない。
 私も髪、伸ばしてみようかな。
 うん、そうだね、お洒落のために伸ばそう。
 ニコちゃんは今、私とお揃いのパジャマを着ている。
 さすがに普段着のまま寝させる訳にもいかないので、貸してあげたのだが、やっぱり彼女は何を着ても似合っている。
 ニコちゃんとお揃い。
 自分の家で友達と二人きりなんて楽しいことは初めてで、なかなか興奮して眠れない。
 静かな世界。
 何も音がない心地よい世界。
 その世界で、唯一ニコちゃんの吐息が聞こえる。
 一緒の布団に入っているから、いつもより中が暖かいように思えた。
「ねぇニコちゃん」
「……何?」
 話しかけると、ニコちゃんが静かに応える。
「私、今日とってもハッピーだったよ」
 今日は間もなく終わる。
 その前に、ニコちゃんへと思いを告げる。
 今日は何事もない休日で終わるかと思っていた。
 だけどニコちゃんが来てくれたから、何気ない一日が劇的に変化した。
 最高の一日に数えられるほど楽しかった日。
「きっと、ニコちゃんが一緒にいてくれたからだと思う、ありがとうね」
「私も、みゆきと一緒にいられて楽しかったよ」
「うん」
 ニコちゃんも微笑んでいた。
 嬉しそうに、柔らかい表情。
 私と同じ気持ち、そう思えた。
 でも、この感情はきっと続く。
 明日だけじゃない。
 これから、ずっと続くかもしれない。
 嬉しくて、なかなか寝付けない。
 これからのことを考えると気分が高まってくる。
「私、色々考えていたんだ。明日はニコちゃんに私たちの住んでいるこの町を案内したり、私たちだけしか知らない秘密の場所に連れていったり、それから……ああ、明日だけじゃ足りないよ」
 考えれば考えるほど色々なことが思いつく。
 口元が緩み、笑顔が止まらない。
 ニコちゃんもきっと楽しみだろうな。
 そう思いながら暗闇の彼女を見る。
 しかし、その表情は先ほど見た時と少し違った。
「……うん」
 頷く彼女は、どこか暗かった。
 この闇のせいではなく、何か別の感情が伏せた瞳から見え隠れしている。
 また、この表情。
 何度か見せていた表情。
 無理をして笑顔を作っているような表情。
 本心を誤魔化しているような辛そうな表情。
 なぜ、そんな表情をするのか。
 もっと笑っていて欲しいのに。
 やっぱり、今日のニコちゃんはどこか変だ。
「ねぇ、ニコちゃん。何かあったの?」
「え?」
 今まで聞けなかった言葉をやっと出す。
 問われたニコちゃんは目を見開いて驚いた顔をして、私を見ていた。
「今日、たまにニコちゃんが暗い表情をする時があったから気になって……もし困っているのなら力になるよ?」
 もしかしたら何か悩みがあるのかもしれない。
 それを解決できないかとこっちの世界に来たのかもしれない。
 私で良ければ力になる。
 だって友達だから。
 ここなら私以外誰も起きている相手はいないし、夜という静かな世界である程度話しやすいかもしれなかった。
 しかし、ニコちゃんの言葉を待っていると彼女は戸惑ったように視線をそらした。
 また、余計なことを言ってしまったのか。
 何をやっているんだ私は。
 ニコちゃんを困らせてはなんの意味もない。
 お節介だっただろうか。
 お節介だったのだろう。
 謝らないと。
「あっ、ご、ごめんね。嫌なら良いよ、変なこと聞いちゃったね」
「みゆきは……」
 ニコちゃんが呟いた。
 なんだか声色が奇妙だった。
 酷く緊張したような声。
 闇の中で見え隠れする瞳が揺れているようだった。
 何を言われるのか、判らない。
 私の中に不安が生まれる。
 ただ、不安だけが蠢く。
「みゆきは、好きな相手っている?」
 静かな世界で彼女の質問が響いた。
「えっ、す、好きな相手……?」
「うん」
 予想していなかった言葉に戸惑ってしまう。
 ただ、ニコちゃんは一心に私を見つめていた。
 ニコちゃんは友達に対する好きではなく、異性に対しての好きを聞いているようだった。 
 聞かれたからにはちゃんと答えなければいけない。
 そう思い、私の中の好きな相手を思い浮かべる。
「えっと……一応、いるかな」
「え……」
 私の言葉を聞いて、期待と不安が入り交じったような感情がニコちゃんの瞳に混じった。
 空気が一段重苦しくなったような気もしたが、気のせいかもしれない。
 私は言葉を続ける。
「ピーターパン、かな」
「……ピーターパン?」
「うん、だってかっこいいんだもん!」
 絵本の中に登場する主人公。
 私の憧れの人物像。
 実は中学生になっても好きな相手はまだいない。
 好意は持てるが愛情とかそういうのをまだ知らない。
 だから絵本の中の登場人物に対しての思いを、私は恋いだと思っている。
 きっとこの感情がいつか現実の相手に対して起きたのなら、それが恋の始まりだと考えていた。
 前も同じようなことを修学旅行でもプリキュアのみんなにも言った覚えがある。
 みんな呆れていたような反応をしていたけど、私もその対応は予想していた。
 だって、知らないんだもん。
「でも、なんでそんなことを聞くの?」
 なぜそんなことを聞いてきたのかニコちゃんへと聞くと、彼女は頬を紅潮させて顔を伏せてしまった。
 このタイミングでそれを聞いてきたってことは、やはり何かしら関係があるかもしれない。
 それはつまり、ニコちゃんが恋で悩んでいる。
 ……って、恋!?
「もしかして、ニコちゃん好きな人がいるの!?」
「え!? そ、それは……」
「誰!? 誰!? もしかして魔王!?」
 私は体験したことのない感情に関して興味津々である。
 どんな感情なのか、どんな風に思っているのか。
 不思議な感情であり、憧れの感情とも言える。
 それをひと足早く体験していると思われるニコちゃん。
 夜なのに声を大きくしてしまうが、興奮した意識はそう簡単には落ち着かない。
 ニコちゃんは戸惑ったような表情を浮かべたが、すぐに頭を左右に振った。
「えっと……違うよ、魔王は友達だから」
 むっ、絵本の世界の事件を解決した後はいつも一緒にいる絵が多かったから一番最初に思いついたのに、どうやら違うようだ。
「じゃあ、桃太郎さん? 絵本の世界でかっこよかったもんね」
「違うよ」
「……あっ、牛魔王さん? 魔王と戦った時に結構助けてくれたもんね」
「ううん」
「違うの? あと誰だろう……私の知っている相手?」
「……うん」
「むぅ、もしかして浦島太郎さんや一寸法師さん、孫悟空さんかなぁ?」
 だけどあの人たちはニコちゃんとあまり接点がなかったし、たぶん違うだろうな。
 あとは誰がいただろうか。
 あの世界でちゃんと話したことのある相手はだいたい挙げたけど、ニコちゃんの反応を見ると違うようだ。
 もしかして、私が会ったけど記憶にない人とかいるのかな。
 うーん。
 うーん。
 誰だろう。
「みゆき」
 首を捻って考えていると、ニコちゃんが私の名前を呼んだ。
「ん、どうしたの?」
「私のこと、好き?」
 なんだろうと思い視線を重ねると、彼女は静かにそう聞いてきた。
「もちろんだよ、友達だもん」
 友達。
 友達だからニコちゃんは好き。
 大切な友達だもん。
 友達が嫌いな人なんていないはず。
 当たり前の気持ち。

「私は、みゆきのこと好き。愛している」

 ニコちゃんも答えた。
 だけど、その言葉は少し違っていた。
 最初はその言葉の意味を理解できなかった。
 むしろ私と同じ感情なんだな、と勘違いしていた。
 だけど、時間が経つに連れ、言葉が頭の中で何度も響いて意味を理解させようとしていた。
「……………………え?」
 やっと出た言葉は理解できていない間抜けな声だった。
 愛している。
 彼女はそう言った。
 私の言う好きとは違う好意の言葉。
 ニコちゃんは、私に愛していると言った。
 生まれて初めての告白。
 それが女の子。
 そして私の友達。
 色々なことが混ざりすぎて言葉を失い、私の体は固まって動けなかった。
 混乱している感情は彼女の答にどのような返答を出せば良いのか判らなかった。
 月明かりの中でも、ニコちゃんの頬は紅潮している。
 数秒前までは見慣れた友達の表情。
 だけど、今はまったくの別人のように見えた。
 全身が緊張し、息が止まったかのように苦しくなる。
「……私、みゆきに助けてもらった時から、胸の中に変な感覚があったんだ」
 視界も四方八方へと自然に動き回っている時、ニコちゃんは静かに語りだした。
「みゆきのことを考えると、いつも心臓が高鳴って顔が熱くなってくるの。それでシンデレラに相談したら、この気持ちが恋って教えてくれたんだ」
 彼女の、なま暖かい吐息が顔を撫でた。
「でも、みゆきに会おうとしても、こっちの世界へ行くことができなくて、会えない日々が続いたらどんどん苦しくもなってきたの。みゆきに会いたいって気持ちだけが強くなるの」
 呼吸が荒くなる。
 心臓がはちきれそうなほど高鳴る。
「みゆきに会いたい、そう思っていたらこっちの世界と繋がったの。あの本は、強い感情でこっちとあっちの世界を繋げるみたいなの」
 感情を吐き出そうとするニコちゃん。
 私は、どうすれば良いの。
 どう答えれば良いの。
 判らない。
 判らない。
 時間が経つほど焦りが酷くなる。
 頭の中がパンク寸前。
「……勝手に話してごめんね。私、みゆきと会えた時、とても嬉しかった。だけど、すぐに言う勇気がなかったんだ」
 ニコちゃんの必死な感情が言葉を通じて伝わってくる。
 今まで体験したことのない状況。
 ベッドで横になっているはずなのに、宙に浮いているような不安定な状態。
 目の前にいるニコちゃんでさえ、判らなくなるほど混乱してしまう。
 全身が鋭く敏感な神経を限界まで張り、全身が熱くなってもきた。
 私はなんて答えれば良いのだろうか。
 こんな自分自身でも判らないほどぐちゃぐちゃな心で、ちゃんとした答なんて出せるのだろうか。
 ニコちゃんの求める答。
 それはなんとなく判る。
 だけど、それは私で良いのだろうか。
 私は恋なんてしたことがない。
 こうやって告白されたのに、この気持ちが恋なのかも判らない。
 はっきりしない感情で頷いたら、きっとこの先、何かしらの問題が生まれるかもしれない。
 だからって先延ばしにできない。
 彼女は今、私に思いを告げている。
 どうすれば良いの。
 誰か教えてよ。
 誰か助けてよ。
 判らないよ。
 不安だよ。
 助けて。
「みゆきは、私のこと……」
 その声と同時に、ニコちゃんの指が私の指に触れた。
 混乱で彼女は意識の外に置いていたので、その突然の感触に私は驚いて反射的に手を引いてしまう。
 それはなんの悪意もない、ただ驚いただけの行動。
 しかし、それはこの状況では悪かった。
 私の反応を見て、ニコちゃんの表情から感情が消えた。
 酷く傷ついたような、見ているだけで苦しくなる表情。
 血の気が引く感覚が全身に広がる。
「あ……その…………ちっ、違――――」
「……気持ち悪かったよね」
 必死に弁解しようとしたが、ニコちゃんは辛そうな表情から無理矢理笑顔を作った。
 ズキリと胸が痛んだ。
「女の子同士なのに、好きって言われても困るよね。みゆき、優しいから面と向かってそういうの言えないよね。ごめんね、迷惑だったよね」
「に、ニコちゃん……」
 無理に笑う彼女は、儚く、今にも消えてしまいそうだった。
 違うの、違うの、違うの。
 必死に否定の言葉を出そうとしても声が出なかった。
 ここで違うと言ったからそれでどうなると言うのだ。
 今の私では答を出せない。
 ただ判らないの。
 今答を求めないで。
 もう少し待って。
 でも、早く何か言わないと。
 目の前が真っ暗になる。
 足掻けば足掻くほど、その闇に捕らわれる。
 焦りと不安が私を縛り付ける。
 すると、ニコちゃんがベッドからはい出た。
 夜に慣れた視界の先に、月明かりに照らされるパジャマ姿のニコちゃんが映る。
「……ごめんね。みゆきを困らせちゃって。でも、みゆきの反応は普通だから気にしないで、私が変なだけだから」
 ズキリと胸がまた痛んだ。
 違うの、謝らないといけないのは私なの。
 そう思っていても体が拘束されたように動かない。
 まるで自分自身じゃないような感覚。
 どうして何も言えないの。
 どうしてニコちゃんを止めようとしないの。
 私が止めないといけないのに。
 だけど私の安易な言葉が彼女を傷つけてしまうかもしれない。
 そう思ってしまい、言葉を発するのが怖くなってしまう。
 だが、迷っている内に事態は進む。
 ニコちゃんは部屋の中央に置いてあったテーブルへと近づき、乗せられたままの彼女自身の絵本を手に取った。
 すると本の中身から光が漏れ出た。
 そして独りでにページがめくられると、今朝のように光を放ち始めた。
「バイバイ、みゆき」
 彼女は笑っていた。
 今にも消えそうなほど儚く、心が砕けてしまいそうなほど辛そうな笑顔を作っていた。
「まっ――――」
 やっと声が出て呼び止めようとした時には遅かった。
 彼女の姿は、幻想のように透けていき、消えた。
 淡い光を放っていた彼女は、頬にひと筋の涙を流す。
 絵本はニコちゃんを吸い込むと、光をすぐに失い、開いたページが閉じられる。
 目映い光はもうない。
 あるのは月明かり。
 二人で少し狭かったはずのベッドは酷く広く感じられ、まだ彼女の温もりが残っている。
 耳が痛いほどの静寂が広がる世界。
 胸が酷く痛み、呆然とした感情が膨れる。
 何もかもが遅かった。
 迷って答を出せずにいたらこうなってしまった。
 私自身の失敗。
 後悔しても取り返しのつかないこと。
 大切な存在を失ってしまったかのような空しさ。
 胸の中にぽっかりと穴が開いたような気分。
 私の中のハッピーはすべて消え去ってしまった。


     ☆


 次の日、結局私は寝ることができず、呆然と座り込んでいたら朝になっていた。
 一応お母さんを心配させないように接したが、いないニコちゃんのことを聞かれて何も言えなくなってしまった。
 お母さんはその反応で私とニコちゃんが喧嘩でもしたのかと気づいたようで、特に追求にしてくることはなかった。
 優しさが辛かった。
 そして私は逃げるようにふしぎ図書館へと来ていた。
 みんなと会う約束があったし、この状況を説明しないといけないし。
 だけど、説明できるのだろうか。
 まだ私の心が判らないのに。
 何を説明するというのか。
 私は助けを求めているのか。
 みんなに会えばなんとかできる。
 そう思って、自分で答を出さずに逃げているのか。
 なんだか私自身が嫌いになってきた。
 私なのに。
 私が嫌い。
 笑わないとハッピーが逃げるのに。
 笑えない。
 笑顔が作れない。
 秘密基地のテーブルに突っ伏しながら無駄に時間が過ぎた。
 もしかしてニコちゃんがまた来るかもと淡い期待を持ちながら、あの絵本を持ってきたが何も変化はない。
 絵本の中のニコちゃんは微笑んでいた。
 私の知っている笑顔で。
 最後に描かれた絵も、真っ黒な体に蝙蝠の羽と小鬼の角が生えた魔王と一緒に笑っている姿だった。
 それ以降のページはまだ描かれていない。
 いつ、彼女が悲しんでいる絵が増えるか、内心不安であった。
 できれば増えて欲しくはない。
 だけど、悲しませてしまった以上、いつかはその絵が増えてしまうかもしれなかった。
 私のせいで。
 私のせいで、彼女を悲しませた。
 彼女のことを思うと胸が苦しくなる。
 顔を伏せていないと、ボロボロと泣き出しそうな気持ちだった。
 一緒にきたキャンディは何度も心配したような声色で私を呼んだけど、力なく反応することしかできない。
 その後、れいかちゃんとやよいちゃんも来たが、挨拶程度で何も言えなかった。
「おはよ……って、みゆき、どないしたんや?」
 そして次に聞こえたのはあかねちゃんの声と扉が開く音。
 暗い雰囲気を出す私を見て驚いた様子。
 迷惑だったかな、今の私は誰かを暗い気持ちにする。
 秘密基地に来ないほうが良かったかな。
「今朝来てみたらこんな状況でして……」
「むしろ朝起きたらこんな感じだったクル」
「ニコちゃんと何かあったみたい」
「そういえばニコがおらんな」
 みんなが話し合っている。
 顔を向けるのさえ億劫になっていた。
 このまま動きたくない。
「みゆき、ニコと何があったんや?」
 すると、隣の椅子に誰かが座る気配とあかねちゃんの優しい声音がすぐ近くに聞こえてきた。
 突っ伏していた顔を動かし、隣にいるあかねちゃんを見る。
 あかねちゃんは心配したような瞳を見せ、口元に笑みを作りながら問いかけてくる。
 時間が経つにつれ、大分落ち着いてきた暗い気持ち。
 れいかちゃんややよいちゃんは落ち込む私に気を使ってか、深くは聞いてこなかったし、何よりその時は答えられるほどの気力がなかった。
 みんなに話さないと。
 そう思い、突っ伏していた体を起こし、重たい瞼を上げて一度みんなと視線を混じらせる。
 嫌われるかな。
 酷いと言われるかな。
 だけど言わないと。
 誰かに言わないといつまでも胸が苦しい。
「ニコちゃんに……」
「ニコに?」
「告白された……」
「そうか、告白されたか……なんやて!?」
「ええ!?」
 私の言葉を聞いてあかねちゃんが目を見開いて驚き、やよいちゃんとれいかちゃんも揃って声を上げた。
 驚くよね、まさかそんなことになっているとは思わないよね、普通は。
 私もこんなことになるとは思っていなかったもの。
「え、ちょ、な、なんやて!?」
「あかねちゃん落ち着いて! みゆきちゃんどういうこと!?」
 酷く焦った様子のあかねちゃんを落ち着けさせ、やよいちゃんが交代で聞いてくる。
 だけど、それになんて答えれば良いのか判らない。
 私でさえ理解していないのに。
 ただ起きたことを口に出す。
「愛しているって言われた……」
「それで、みゆきはなんて言ったんや!?」
 ある程度落ち着きを取り戻したあかねちゃんが顔を近づけて、頬を朱色に染めながら聞いてきた。
 興味津々。女の子だから仕方がないか。
 でも、そんな期待に答られるほどの結果はない。
「…………何も、言えなかった」
「な、何も? どういう……」
「何も言えなかったの。ただびっくりして、何を言えば良いか判らなくなって、ニコちゃんをそのせいで悲しませちゃった。絵本の世界へ帰っていくニコちゃんを止められなかったの……」
「何やってるんや……」
 本当に、バカだよね。
 あかねちゃんに呆れられても仕方がない。
 ニコちゃんを悲しませたまま、見ているしかできなかった、バカな私。
 悔やんでも悔やみきれない。
 私からニコちゃんに会いに行けるのだろうか。
 行かないといけないけど、勇気がなかった。
 このまま会ったら、彼女をまた悲しませるのではないだろうか。
 もう会えなくなってしまうのではないだろうか。
 そんな不安のせいで、一歩が踏み出せなかった。
 判らない。
 私はどうしたら良いの。
 先に進むのが怖い。
 怖い。
 怖い。
 逃げている。
 プリキュアの時はどんな怖くても、逃げずに戦ってきた。
 プリキュアじゃなくても逃げずに困難に向き合ってきた。
 だけど、今はどうか。
 どうすれば良いか判らない。
 友達がいなくなる恐怖。
 怖い。
 失いたくない。
 思えば思うほど胸が苦しくなる。
 死んでしまえばどんなに楽だろうかと思えるほどに。
 痛い。
 痛い。痛い。痛い。
 ニコちゃん……。
 心の中で彼女の名前を呼ぶ。
 彼女の笑顔と悲しむ表情が交互に頭の中で現れる。
 彼女への思いが強くなる。
 その時、持ってきていた絵本が輝いた。
「な、なんや!?」
 あかねちゃんが驚く。
 私は三度目のその光景に淡い期待と不安が生まれる。
 こっちとあっちの世界を繋ぐ光。
 昨日はその光からニコちゃんが現れ、そして消えていった。
 そしてまたその光。
「ニコちゃ――へぶっ!!」
 また彼女と会う。
 そう思い、名前を呼んだが、目の前の絵本の光から飛び出してきたのは真っ黒なボール。
 魔王、と気づいた時には飛び出してきた彼は勢いよく私の顔面へと直撃した。
 勢いが相当良かったのか、私の体はそのままのけぞり椅子ごと背後の床へと倒れる。
 背中に広がる鈍い痛みと痺れるような顔の痛みが合わさり、気を失うかと思ったがそんなことはなかった。
 視界の半分は真っ暗で、見える片目からは魔王の小さくて可愛らしい羽が見えた。
 どうやら顔に魔王が乗っているようだ。
「みゆきちゃん!?」
 やよいちゃんの心配するような悲鳴が聞こえると、乗っていた魔王の体が動いた。
「イタタタ……ハッ、みゆきはどこだ!?」
 ぐりぐりと顔の上で動かれて、肌や鼻にゴムボールを押しつけられているような感触が続く。
 聞き慣れた高い声。
 だけど、今はあまり会いたくはなかった。
「魔王さん!?」
「みゆきちゃんは魔王の下でのびてるよ」
「ん? あっ、何寝ているんだ!」
「いや、アンタがぶつかって倒れたんや」
「とにかくみゆきの上から退くクル!!」
 みんながみんな、それぞれに叫ぶ。
 すぐに魔王が私の顔から退き、視界がはっきりとする。
 倒れた体を起こすと、隣で私を睨みつけている魔王と目があった。
 酷く怒った、突き刺さるような鋭い視線。
「おい、みゆき! ニコに何をした!?」
 その問いに胸が痛む。
 なぜ、彼がここに来て、その言葉を出すのか。
 判っていた。
 彼女はニコちゃんの友達だもん。
「私は……」
「ニコから笑顔を奪うなんて許さないぞ!」
 心臓が握りつぶされそうなほどの鋭い言葉。
 何度も鼓動が鳴る。
 苦しい。
 呼吸しているのかも判らない。
 私がニコちゃんの笑顔を奪った。
 その言葉で今まで逃げていたことを自覚してしまう。
 魔王は激しい剣幕で今にも私に噛みついてきそうな勢いだった。
 だけど、噛みつかれたとしても私が文句を言う資格はないのかもしれない。
 魔王の友達であるニコちゃんを悲しませた。
 私が酷いことをしたのは判っている。
「ま、魔王、落ち着いて……」
「落ち着いていられるか! ニコは昨日帰ってきてから部屋にこもりっぱなしで顔もあわせてくれないんだぞ!」
 やよいちゃんが止めようとしても、聞く耳を持たない様子で魔王は怒鳴った。
 焦っているような魔王の表情。
 その言葉にまた胸が痛む。
 やっぱり、ニコちゃんは悲しんでいる。
 あの無理に作った笑顔。
 苦しそうな笑顔。
 私が、それを作った。
「ニコが……ニコがまた笑わなくなったら……オレはお前を一生恨んでやる!」
 怒気を含んだ魔王の声。
 だけど、彼の瞳は湿り揺らいでいた。
 私のせいで、魔王も悲しんでいる。
 私のせいで。
「……ごめん。ごめんね、魔王……」
 それは魔王に対する言葉。
 そしてここにいないニコちゃんへの言葉。
 私のせいで迷惑をかけたみんなへの言葉。
 涙が抑えられない。
 目の前が見えなくなってくる。
 感情が高まり、締め付けられる。
 頬を水が伝い、床を湿らす。
 何も考えられなくなる。
 ごめんね。
 ごめんね、魔王。
 ごめんね、みんな。
 ごめんね、ニコちゃん。
 私にはどうすれば良いのか判らないの。
 こんなに言われてもどうすれば良いか判らないの。
 ニコちゃんへの思いが判らないの。
 ぜんぜんハッピーじゃない。
 苦しいよ、辛いよ、痛いよ、怖いよ。
 ただ、涙を流して、嗚咽を漏らすことしかできない。
 こんな表情じゃ、みんなを暗くさせてしまうのに。
 笑っていないといけないのに。
 止まらない。
 止めることができない。
 胸の中から色々な感情があふれ出す。
「――魔王さん、落ち着いてください。ここでみゆきさんに言っても何も変わらないじゃないですか」
 その時、れいかちゃんの凛とした声が響いた。
 涙で視界が歪む中、ぐずる声を落ち着かせて彼女のほうへと視線を向ける。
 れいかちゃんは魔王の隣に膝をついてしゃがみ、しっかりとした落ち着いた視線で彼を見つめていた。
 言われた魔王は「だけどっ」と言葉を濁し、気まずそうに視線を逸らした。
 れいかちゃんはそのまま言葉を続けた。
「実はお願いがあるのですが」
「……なんだ?」
「ニコさんに、もう一度こちらに来るように言ってもらってもよろしいでしょうか?」
 突然の提案に言われた魔王は驚き、私とあかねちゃんややよいちゃんも声には出さないが驚いてしまう。
 なぜそんなことを、と思っていると魔王が訝しむようにれいかちゃんを見た。
「なんでだ?」
「もしかしたら、ニコさんの笑顔を取り戻せるかもしれませんよ」
 聞かれたれいかちゃんは微笑みながら、私へと視線を向けてくる。
 もしかして、私がなんとかできると思っているのだろうか。
 そんな期待されても、応えられる自信がない。
 期待を裏切る可能性が高いのに。
 魔王も私を見るがすぐにれいかちゃんへと戻す。
「コイツか?」
「はい」
「本気で言っているのか?」
「はい、私たちも協力して準備しますよ」
 落ち着いた声音。
 魔王は無言のままれいかちゃんを見つめる。
 静寂。
 重苦しい空気。
 何も言えない。
 魔王の言葉を待つ。
 私はあまり頷いて欲しくはなかった。
 ニコちゃんに会いたいけど、会いたくない。
 これ以上会って、関係を悪くしたくはない。
 逃げている。
 そう判っていても動けない。
「……判った、言ってみる」
 魔王は静かに頷いた。
 血の気が引く思い。
 またニコちゃんを悲しませる。
 悲しませてしまう。
 嫌っ、嫌っ、嫌っ。
 なぜれいかちゃんはそんなことを言うの。
 私の気持ちを知らないで、なんで勝手なことをするの。
 れいかちゃんにこんな感情を向けたくない。
 だけど疑問が生まれ、思いが強くなる。
 私自身が嫌いになる。
 胸が痛くなる。
 だけど、れいかちゃんは私を見ずに魔王へ微笑んだ。
「はい、ありがとうございます」
「ただし、もしニコが笑顔で帰ってこなかったら……」
 そう言い、私を睨む魔王。
 息が詰まる。
 首筋に寒気が走る。
 逃げ出したい。
 背中にも嫌な汗が流れる。
 何も言えない。
 私に期待なんかしないで。
 私は、私はそんなに強くないの。
「ふんっ」
 鼻で息を吐き、魔王はテーブルへと飛び乗り、床に座り込んでいた私から見えない位置へ移動した。
 するとテーブルの絵本がある位置から光が広がり、そしてすぐに消えてしまう。
 魔王があっちの世界に帰ったのだろう。
 そしてまた私たちだけになる。
 息が詰まる静寂。
 みんな、第一声を迷っているような様子。
 重苦しい。
 嫌だ。
 何も考えたくない。
「みゆきさん」
 静かな世界に、その声は響いた。
 はっきりと、優しく包み込むような声。
 重たい顔を向けると、れいかちゃんは真剣な表情をして私を見ていた。
 勝手なことをした友人。
 恨むような嫌な感情。
 私自身が嫌いになってしまう暗い感情。
 れいかちゃんを見ていると、それが溜まってくる。
 なぜなの。
 なぜ、そんなことをするの。
 やめてよ。
 私を苦しめないでよ。
 私を傷つけないでよ。
 やめてよ。
 やめてよ。
「ニコさんに告白されて、みゆきさんはどう思いましたか? 嫌な気持ちになりましたか?」
 黒い感情が私の中が溢れた時、れいかちゃんは静かに聞いてきた。
 嫌な気持ち?
 ニコちゃんが私に告白して来たのが嫌?
 嫌だったの? 私はあの時、嫌だったの?
 違う。そんなことは断じてない。
 今は確かに迷っている。
 むしろ感情が判らない。
 だけど、ニコちゃんに対して嫌な気持ちなんてない。
 そんな感情は存在していない。
 そんなことはありえない。
 冗談でも、そんなことは言って欲しくなかった。
 頭に血が上る感覚。
 感情が高まり、私は声を荒げてしまう。
「そ……そんなことないよ!」
「なら、ちゃんとニコさんの思いに対応するべきです」
 私の怒声に眉ひとつ動かさず、れいかちゃんは言葉を続けた。
 気圧されるような雰囲気に、熱くなった頭が少し冷える。
 対応すると言われても、それが判らないからこう悩んでいるのに。
「なんて言えば良いか、判らないよ……私の考えが、判らないの……」
「では、まずみゆきさんの中にあるニコさんに対する思いをあげてみましょう。それをまとめて伝える内容を考えれば良いんですよ。頭の中を整理するのは大切ですよ」
 微笑みながられいかちゃんが私の手を握り、問いかけるように頷いた。
 その手は暖かく、痛む心を優しく撫でているようだった。
 れいかちゃんの思いが伝わってくる。
 れいかちゃんは私を困らせるために、あんな提案をした訳ではない。
 そんなの判っていたのに、考えることができなかった。
 友達を信じられなかった私。
 嫌だ。今の私は生きていて一番酷い私だ。
 それなのに、れいかちゃんは私を見捨てることはしなかった。
 嬉しかった。
 私の手を握っていてくれる彼女が頼もしかった。
 私の中にあった嫌な感覚も徐々に消えていく。
 乱れた心が落ち着いてきた。
 れいかちゃんを見つめていると、急にその優しい顔に影が落ちる。
「余計なお節介かと思いましたが、このまま何もしないのはよくないと思いまして、強引ですがすみません。みゆきさんが笑顔でいるためにはちゃんと応えないといけません」
 笑顔。
 私の中で大切な言葉。
 ニコちゃんが教えてくれた言葉。
 昨日からそれを忘れていた。
 れいかちゃんの優しさが強ばった胸を撫でる。
 れいかちゃんが謝ることなんて何もない。
 私が謝らないといけないのに。
「そうやで、れいかの言う通りや、いつまでも暗い顔をしていたらハッピーが逃げてしまうで」
「そうそう、スマイルだよ、みゆきちゃん!」
「みゆきに暗い顔は似合わないクル!」
 あかねちゃん、やよいちゃん、キャンディは私に頼もしい笑顔を見せてくれた。
 最低な私に笑顔を向けてくれる最高の友達。
 大切な友達。
 嬉しかった。
 それだけで胸が熱くなる。
 だけど、それと同時に不安も生まれる。
 みんなにこんな期待されているのに、応えられるのかが不安であった。
「……私、ニコちゃんの笑顔を取り戻せるのかな?」
「それはみゆきさん次第です。だけど私たちも可能な限り協力しますよ」
 れいかちゃんがそういうと、みんなも続くように頷いた。
 その言葉が、弱った今の心には十二分に頼もしかった。
「みんな、ありがとう……」
 ただ嬉しくて、泣きそうになる。
 今度は先ほどの冷たく辛い涙と違い、暖かい涙。
 感謝しても足りないほど嬉しい。
 張りつめた空気がいつの間にかなくなっていた。
 気持ちが楽になる。
 いつもの空気。
 口元が久しぶりのような感覚を取り戻す。
 忘れていた笑顔。
 できなかった笑顔。
 ありがとう。
 背中を押してもらい、勇気がついたような気がする。
 ふと、ここであることが気になった。
 なぜれいかちゃんは優しくしてくれるのだろうか。
 友達だから、というのには彼女から伝わってくる思いが大きいようにも思えた。
 もっと違う何か感情があるような気がする。
「れいかちゃん……どうして、私にそこまでしてくれるの?」
 疑問を素直に口に出す。
 すると問われたれいかちゃんは、驚き少し迷ったように視線を左右に揺らし言葉を漏らした。
「……友達だから、というのじゃ言葉が足りませんよね」
 苦笑いをしながら、困ったような表情をするれいかちゃんは、慎重な様子でゆっくりと喋り出した。
「私、ニコさんの気持ちがなんとなく判るのです」
「え?」
「ニコさんはみゆきさんに対して思いを告げました。告白というのは相手の返答次第では、その相手との関係が崩れてしまう危険性があるのです。まして、同姓からの告白なんて。もしかしたら好きな相手と一緒に過ごせなくなるかもしれない……そう思うと、普通は言えないのですが、ニコさんは勇気を振り絞り思いを告げました。それはとても凄いことだと思います。自分が傷つくことを恐れない勇気……」
 一瞬、れいかちゃんの表情に影が落ちた。
 自分自身に悲しむような顔。
 なぜそんな表情をするのか。
 それにれいかちゃんの喋り方は、なんだかニコちゃんのことを話している訳ではなく、自分自身の話をしているようにも聞こえた。
 なぜそんなように話しているのか。
 最初は判らなかったけど、ここにいないもう一人の友達の顔を思い出すと、なんとなく気づいてしまう。
 ああ、そうだ。
 れいかちゃんが好きな相手。
 なおちゃんだ。
 昨日、商店街で会った時もれいかちゃんはなおちゃんと楽しそうに買い物をしていた。
 一緒にいることが当たり前の関係だけど、れいかちゃんはもっと先のことを思っているんだ。
 今までは恐らくそうだろうという曖昧な印象しかなかったけど、この反応で判った。
 やっぱり、そうなんだ。
 きっと、ニコちゃんの話を聞いて、自分と似ているようなところを感じたのかもしれない。
 だからニコちゃんを応援したい気持ちで、行動を起こしたのだろうか。
 憶測で物を考えていると、彼女は顔を上げて真剣な眼差しで私へと語りかけてくる。
「だから、みゆきさんはそのニコさんの思いに応えなければいけないと思うのです。そうしないといつまでも不安にまとわりつかれ、ニコさんが苦しんでしまいます」
 後悔しないで。
 そう言っているように聞こえた。
 恐らく、ニコちゃんは私なんかとは比べ物にならないほど苦しんでいるに違いない。
 私は何をやっているのだろう。
 ニコちゃんのことを思いながら、結局は自分が辛いことから逃げるために現実をちゃんと見ていなかった。
 私って本当に最低だな。
 だけど、いつまでも落ち込んでいても仕方がない。
 心は大分落ち着いた。
 今なら、ニコちゃんとちゃんと話せるはず。
「……うん、ちゃんと言わないとニコちゃんが苦しむよね。判ったよれいかちゃん、私、頑張るよ」
「はい、その意気です」
「……あのさ、れいかちゃん」
「はい?」
「れいかちゃんも、いつかちゃんと思いは告げてね」
 れいかちゃんは、きっと怖いんだ。
 なおちゃんとずっと昔から幼なじみという関係を続けていたから、隣にいるのが当たり前になっている。
 今のままならなおちゃんと一緒にいられる。
 だけど、いつまでも思いを告げずにいても良いのだろうかと迷っているに違いない。
 関係が壊れるのが怖い。
 嫌われるのが怖い。
 もう会えなくなるのが怖い。
 色々な不安がれいかちゃんを止めている。
 今は無理にとは言わない。
 でも、いつかは思いを告げないといけない。
 ニコちゃんのように、前に進んでみないと、れいかちゃんだっていつまでも苦しんでしまう。
「……はい、判っています」
 誰に、とは言わなかったが、れいかちゃんは頷いた。
 その言葉が実行されるのはいつになるかは判らない。
 すぐなのか、ずっと先なのか判らない。
 だけど、いつか彼女の思いが溢れたら、事態は進むだろう。
 それまで、私も協力する。
 私をこうやって助けてくれたのだから当然だ。
 れいかちゃんも笑顔でいて欲しいから。
 みんな笑顔でいて欲しいから。
 周りが静かになろうとした時、ポンと手を叩く音が響いた。
 そっちを見るとやよいちゃんが笑顔で言葉を弾く。
「さて、まずはみゆきちゃんのニコちゃんに対する思いをまとめないとね」
「せやけど、思いを吐き出すちゅーてもどうやるんや? れいか、お手本はないんか?」
 あかねちゃんに聞かれると、れいかちゃんは急に問われて焦ったのかあたふたと視線を天井に向け、人差し指を下唇に当てながら考え出した。
「えっと、私の場合は相手の好きなところをまず述べていきますね。一直線で正義感が強く、家族思いでどんな相手でも優しく接し、だけど不器用なところなどが……」
 誰とは言わないが、どう聞いてもそれはなおちゃんのことというのは私も含め、あかねちゃんややよいちゃんも判っているようで顔を見合わせて苦笑していた。
 れいかちゃんって隠し事が苦手なんだな、と友達の一面を知って嬉しい気持ちになる。
 こうやって笑っていられるのは友達がいるから。
 みんながいなければ今の私はいない。
 もちろんニコちゃんもその中の一人だ。
 ううん、ニコちゃんがいたからでこそ、私があるのだ。
 かけがえのない友達。
 いや、この感情は……。
 その時、秘密基地の扉が勢い良く開いて誰かが入ってきた。
「みんな、遅れてごめーん!」
「ひゃぅっ!?」
 同時に響いた声を聞いて、なおちゃんの好きなところを述べていたれいかちゃんが奇妙な悲鳴を上げて体を大きく揺らした。
 声のする方向を見ると、予想通りの相手が立っていた。
 私の友達で、れいかちゃんの思い人のなおちゃん。
 急いで来たのか息が少し上がっているようだ。
 しかし、れいかちゃんの奇妙な声を聞いて、何事かと首を捻っている。
 なおちゃんはれいかちゃんにこんな思われているなんて気づいているのだろうか。
 普段の姿を見ていると判らない。
 いつも一緒にいるのが当たり前だから。
 だけど、もしかしたら……。
「れいか、どうしたの?」
「な、ななな、なお!? なんでもないわよ!!」
「うーん、そう?」
 普段見られないれいかちゃんの動揺した姿。
 なおちゃんは不思議そうに再び首を捻る。
 あかねちゃんややよいちゃんがくすくすと笑う。
 キャンディはよく判っていないようだけど、楽しそう。
 私も、みんなに釣られるように笑顔になる。
 ああ、楽しい。
 この輪にニコちゃんを加えられるだろうか。
 いや、加えないといけない。
 そしてみんなで笑うんだ。
 ウルトラハッピーになるんだ。


     ☆


 ふしぎ図書館も昼と夜がある。
 昼がお陽様が照りつける清々しく明るい空間。
 夜は月明かりが図書館内を青白く照らし、幻想的な世界が広がる。
 季節に関係なく、ここは適度に暖かい、春のような場所。
 私は、秘密基地で一人待っている。
 テーブルに置かれた濃褐色の絵本。
 それを前に、永遠と思える時間を待っていた。
 他のみんなはいない。
 私だけ。
 私だけが彼女を待っている。
 固唾を飲んで止まっている世界の中で待った。
 みんなのお蔭で気持ちは落ち着いた。
 だけど、いざ一人になると不安が生まれてきてしまう。
 本当に思いを伝えられるのだろうか。
 何も言えないのではないだろうか。
 時間が経つほど、迷いが増えていく。
 落ち着かない気持ちのまま、私は一度家へ帰り、ニコちゃんが置いていった彼女の服や靴を持ってきた。
 ニコちゃんは私のパジャマを着たまま帰ってしまった。
 もしかしたら服がなくて困っているかもしれなかった。
 しかし、それは落ち着かない心を誤魔化すためのただの理由。
 動かないと、落ち着かない。
 何かをしていないと迷いがまた生まれてきそうだったから。
 そんな気持ちで今できることを考え、私は自室とふしぎ図書館を行き来していた。
 だけどそこまでやることは思いつかず、諦めて月明かりのみが広がる世界で待つことにした。
 家にいたら、どうなるか判らなかった。
 邪魔の入らない、ここならとれいかちゃんはアドバイスをしてくれた。
 その時だった。
 絵本がまた目映い光を放つ。
 全身が強ばり、緊張するように息が詰まる。
 ページがめくれて光の入口。
 そしてそこから現れる女の子。
 テーブルを間に挟んで私と反対側の床に足をつけたニコちゃん。
 着ている服は昨日別れた時と同じ、私のパジャマ。
 一日ぶりの再会なのに、ずっとずっと会っていなかったような気持ちになる。
「みゆき……」
「ニコちゃん……」
 懐かしくも聞こえる彼女の声。
 彼女は気まずそうな表情を浮かべていた。
 いざ対面すると焦りが酷くなる。
 私から喋りかけないといけないのに、唇が動かない。
 緊張で声を出すことができない。
 空気はどこか重苦しい。
 知らない場所にいるみたい。
 無言の時間。
 私やニコちゃんはその場から動けない。
 ただ、静かに互いを見つめていた。
 彼女が何を考えているか判らない。
 目の前にいるのに判らない。
 どれくらい時間が経っただろうか。
 永遠とも思える時間。
 だけど、先に言葉を発したのはニコちゃんだった。
「……えっと、みゆきのパジャマ、借りっぱなしだったから返しに来たんだ」
「う、うん……」
 きっと魔王にも言われたのかもしれない。
 彼女からあまり長居したくという意識が感じる。
 避けられている。
 そう思えた。
 ちくりと胸が痛む。
 だけど、暗い気持ちで表情を歪めている暇はなかった。
「これ、ニコちゃんの服……」
「あ、うん、ごめん……」
 ぎこちない会話。
 言われてやっと頭が働き、体が動いた。
 テーブルに置いた畳んだ服を丁寧に持ち、彼女へ渡すため席を立つ。
 酷く緊張した体が強ばり、ニコちゃんへと近づく足取りが重かった。
 ニコちゃんは目を伏せたまま、躊躇するように私に近づき服を受け取った。
 彼女と接近する。
 彼女の匂いが鼻をくすぐる。
 目の前にいるニコちゃんは可愛らしく見えた。
 私とは違う、可愛く優しい女の子。
 意識が集中する。
 呼吸まで聞こえてきそうなほど周囲の雑音が消えてしまう。
 こんなに近いのに、彼女が判らなかった。
 するとニコちゃんは周囲を見回した。
「えっと、どこで着替えれば……」
「大丈夫だよ、ここは私たちしかいないから」
 ここは私と友達しかしらない場所。
 他のみんなは私とニコちゃんが静かに話せるようにと先に帰ってしまった。
 なので、ふしぎ図書館にいるのは私たちだけ。
「そうじゃ……う、うん……」
 何か言いかけて、ニコちゃんは頬を紅潮させながら口ごもり頷いた。
 なんだろう、と思いながらニコちゃんを見ていると、彼女は手に取った服を一度テーブルに起き、戸惑ったように着ていたパジャマのボタンを外していった。
 見慣れた私のパジャマ。
 そこから見えてくるニコちゃんの白い肌。
 月明かりで青白く浮かび上がる彼女の肌は昨日のお風呂場で見た時よりも輝いて見えた。
 昨日は彼女の肌を見てもなんとも思わなかった。
 だけど、今は見とれるほど綺麗で、胸がドキドキしていた。
「みゆき」
 突然、ニコちゃんが私の名前を呼んだ。
 胸が一回大きく鳴って私は慌ててニコちゃんへと顔を向ける。
「え、な、何?」
「恥ずかしい……」
 そう言いながら、彼女は昨日の脱衣所で見せたように、腕で胸を隠して背中を向けた。
 あの時はなんとも思わなかった。
 しかし、今はなんでそんな反応をするのか判ってしまう。
 彼女は好きな相手に見られているのが恥ずかしいのだ。
 ニコちゃんにとっては異性に見られているのと同じなのかもしれない。
 つまり彼女が私をそういう相手だと意識している。
 そう思うと急に私も恥ずかしくなってきてしまう。
「ご、ごめんね!」
 慌てて彼女の裸を視界から外した。
 燃えるように顔が熱くなる。
 口元を手で覆い隠し、何度も何度も鳴る心臓を落ち着かせようと四苦八苦するが上手くいかない。
 少しの静寂の後、視界外から布の擦れる音が聞こえる。
 虫の音や車の音とかが聞こえないここでは唯一聞こえるそれへ意識が酷く集中してしまう。
 すぐ傍でニコちゃんが着替えている。
 彼女が裸になっている。
 その意識が心臓をさらに激しくする。
 しばらくするとその音もなくなる。
 だけど、ニコちゃんは何も言わない。
 もしまだ着替えていたらどうしようと思い、向くに向けない。
 嫌な静寂。
「……パジャマ、ありがとうね。じゃあね」
 その中で響いた声。
 聞こえた瞬間、私の全身が震えて、勢い良くニコちゃんへと顔を向ける。
 するとニコちゃんはテーブルの上にある絵本へ触れようとしていた。
 あちらの世界へ帰ろうとしている。
 今帰ってしまったらもう会えなくなる。
 ニコちゃんと会えなくなる。
 嫌だ、嫌だ、嫌だ。 
「ニコちゃん、待って!」
 嫌な気持ちが爆発的に膨れ上がる。
 気づいた時には絵本に触れようとしていたニコちゃんの腕を掴んで止めていた。
 暖かくて柔らかい温もり。
 びくりと、ニコちゃんの体が震え、私を見た。
 しかし、その瞳はすぐに辛そうな物へと代わり、私の手をふりほどこうと腕を大きく動かした。
「は……放して!」
「放さないよ!」
 だけど、私も放す訳にはいかなかった。
 もう立ち止まって後悔するのは嫌だった。
「放したら、ニコちゃんともう会えないと思うから……!」
 放したくない。
 やっと行動を起こせたんだ。
 チャンスを逃す訳にはいかない。
「私は、ニコちゃんと離れたくないの!」
「やめてよ!!」
 私の声をかき消すようにニコちゃんの悲鳴に近い声がふしぎ図書館へ響いた。
 熱くなっていた意識が凍り付く。
 彼女の瞳はこぼれ落ちそうなほど涙が貯まり、胸が張り裂けそうなほど痛む表情をしていた。
 胸が痛む。
 昨日の痛みが蘇る。
 苦しい。
 痛い。
 放したら、本当に消えてしまいそうだ。
 何もかもが壊れ、砕け、消える。
 そして、幻のように曖昧な存在のニコちゃんは、半狂乱になりながら声を吐き出した。
「みゆきは優しいからそう言うのでしょ? 私が哀れだから!? 無理して止めないで、余計辛くなるから! 私が気持ち悪いなら気持ち悪いって言ってよ!!」
「違う!!」
 狂いそうになるほど叫び、ぼろぼろと大粒の涙を流しているニコちゃん。
 だけど、その言葉はまったく当たっていない。
 私はそんなことを欠片も思っていない。
 哀れなんて思っていない。
 ニコちゃんが気持ち悪い訳はない。
 彼女の間違った考えを全力で否定する。
 そう思わせてしまったのは私のせい。
 情けない私のせい。
 自分を叱り、落ち着かない気持ちを無理矢理落ち着かせる。
「違うの……違うのニコちゃん……」
 吐き出すように、溜まった感情が溢れる。
 まだ涙を流すニコちゃんは、読みとれない感情を含んだ瞳を向け続ける。
 もう考えることなんてできない。
 今度は私が思いを告げる番。
「私、昨日ニコちゃんに告白されてびっくりしたの。告白されたのも初めてだし、ニコちゃんにそんなこと言われるとは思わなかったの。頭の中が混乱して、何がなんだか判らなくなって……」
 言い訳に聞こえるかもしれない。
 あの時、確かに混乱して何も言えなかった。
 だけど、ニコちゃんにとっては関係ない。
 彼女はそれで傷ついてしまったのだから。
 傷ついてしまえば、その傷口がいつまでも痛む。
 私が彼女を傷つけた。
 昨日、言えなかったのはきっと、私が迷っていたから。
 告白された時、本当に私で良いのか迷っていたんだ。
 私は見た目が綺麗じゃないし、可愛くもない。
 ドジでマヌケ、絵本が好きなだけで、ニコちゃんに何かを与えるなんてできるのだろうか。
 その疑問が私を迷わせた。
 私がニコちゃんと吊り合うのか。
 それが不安だった。
「私って、好きな相手がピーターパンって言ったよね」
「……うん」
 ニコちゃんは静かに頷いた。
 昨日言った、私の初恋の相手。
 そう思っていた。
 だけど……。
「絵本の登場人物への思いが、ずっと恋だと思っていたの。だけど、昨日、ニコちゃんに言われて判ったんだ。今までの好きは本当の好きじゃないっていうのがね」
 ニコちゃんが私を愛していると言った時、胸の中に何かが生まれた。
 私が絵本の登場人物に恋していた時とは違う感情。
 すぐには判らなかったけど、ここで昼にみんなと話していて少しずつ判っていった。
 愛しているというニコちゃんの言葉を思い出す度に胸が何度も鳴り、顔が熱くなる。
「ニコちゃんの思い、伝わってきたよ。私の心に伝わったよ。ごめんね、不安だったよね」
 彼女が私を好きということも、れいかちゃんの言ったように嫌われてしまうかもしれないという不安も、すべてが伝わってきた。
 ただ、私の頭では容量が多すぎて、ちゃんと理解することがすぐにはできなかった。
 私に思いを伝えようとするまで、どれだけ不安だったのだろうか。
 私はそれに気づかず、昨日はニコちゃんを連れ回していた。
 ニコちゃんと一緒にいる時間が楽しかった。
 ずっと一緒にいたいと思っていた。
 ニコちゃんは不安げな瞳を揺らめかせる。
 儚く、弱い、存在。
 私が護らないといけない存在。
「もし……もし、まだ私が嫌いじゃなかったら、これからも一緒にいてくれる?」
「え……?」
 これは私の自分勝手な思い。
 彼女を散々傷つけたのに、今更何を言っているのかと思われるかもしれない。
 嫌われてしまうかもしれない。
 そう思うとやっぱり怖かった。
 臆病風に吹かれて言わないという選択肢もあった。
 でも、もう逃げないって決めたんだ。
 ニコちゃんも私に告白してくれたのだ。
 それに応えなくちゃいけない。
「遅くなってごめんね。私も、ニコちゃんのことが好き。大好き。一緒にいたいの」
 愛しているなんてカッコいいことは言えない。
 だけど、今まで私が口に出してきた好きとは違う。
 相手を愛しているという気持ち。
 これがそうなんだ。
 初めて知った感情。
 初恋が女の子。
 考えてみれば、初めて見た絵本の主人公もニコちゃんだった。
 ニコちゃんが教えてくれた笑顔の良さをずっと覚えている。
 あの時からニコちゃんを意識していたんだと思う。
 普通は好きになる相手なんて男の子だろう。
 だから、女の子への恋は普通じゃないのだろうか。
 けど、私はそれを変だとは思わない。
 こうやってニコちゃんと一緒にいられるだけで嬉しかった。
 ニコちゃんに触れられて嬉しかった。
 彼女のすべてが愛おしかった。
 今更と言われて怒られるかもしれなかったが、なぜか先ほどの動揺が嘘のようになくなっていた。
 掴む彼女の腕から伝わる脈動が、待ち続ける中で唯一の音とも言えた。
 彼女はなんて言うのだろうか。
 自分の感情さえも判らない。
 ただ、待つしかできなかった。
「……み……ゆき……」
 静寂の中で彼女の嗚咽混じりの声が響いた。
 ぼろぼろと涙を流して彼女は唇を動かす。
「みゆきを嫌いに……えぐっ、嫌いになれる訳ないじゃない……」
 嗚咽混じりの声でも、その言葉はしっかりと聞こえた。
 声を押し殺さず、大口を開けて彼女は泣いた。
 抑えていた感情が溢れるように止まらない。
 彼女は私をまだ好きでいてくれた。
 嬉しい。
 思いがやっと交わった。
 私とニコちゃんの思いが。
 平行線だった思いが重なった。
 そう実感すると同時に、全身から力が抜ける。
 ニコちゃんは涙を流す。
 目元からこぼれ落ちた粒が頬を伝って私の手に落ちる。
 湿った水は暖かかった。
 彼女の感情を写しているような温度。
 私は泣き続けるニコちゃんの頭へ、そっと手を置く。
 さらさらとした美しい髪の感触。
 彼女が落ち着くように優しく撫で、「好きだよ、ニコちゃん」と呟く。
 すると、ニコちゃんが私へ抱きついてきた。
「みゆき!!」
 そう叫びながら彼女の体を受け止める。
 華奢で儚い体。
 一度は離れてしまった心。
 大切な存在が私のすぐ近くにあった。
 嗚咽が耳元から聞こえる。
 そして、ニコちゃんは何度も同じ言葉を言っていた。
「……好き! 好き! 大好き!!」
 感情や思いを吐き出すように、そう言っていた。
 私に対する思いをぶつけていた。
 彼女は私を求めている。
 前に悩んだように私は応えられるのだろうか。
 ううん、応えなければいけない。
 私はニコちゃんのことが好きなんだ。
 彼女はこんな私を好きだと言ってくれたんだ。
 初めての恋。
 絶対に後悔はしたくない。
 私は抱きついているニコちゃんの体を優しく、包み込むように抱きしめる。
 二度と放さないように。
「うん、私も大好きだよ、ニコちゃん。これからもずっとね」
 虫の音や風の音、いっさいの雑音が聞こえない。
 本当に静かな世界。
 その世界で聞こえるのはニコちゃんの声。
 抱きしめる彼女の温もりは心が落ち着いてくる。
 ニコちゃんの物語へ、今日から私も加わる。
 私は彼女を笑顔にする役目。
 明日も、明後日も、これからもずっと彼女に笑っていて欲しい。
 彼女の笑顔は眩しいくて、綺麗だから。
「ニコちゃん」
 彼女を抱きしめる腕は緩めず、顔を離して話しかける。
 まだ嗚咽を漏らしている彼女の顔は、鼻先や目元が真っ赤に腫れていた。
 泣いていても、彼女はやっぱり綺麗だな。
 そう思いながら、私の中で一番の笑顔を作る。
「はい、スマイル」
 いつまでも泣いていたらいけない。
 まずは笑おう。
 笑えば幸せがやってくるから。
 鼻をぐずったニコちゃんは、私の言葉を聞いて、
「うん」
 と頷きながら、少しぎこちないが笑顔を作った。
 ぎこちないが心からの笑顔。
 本当に嬉しそうな笑顔。
 ああ、そうだよ、私はこの笑顔を取り戻したかったんだ。
 胸が熱くなる。
 何もかもが愛おしくなる。
 月明かりで青白い世界。
 私たちしかいない世界。
 私たちは、時間を忘れて笑い合った。
 暗い気持ちは欠片もない。
 あるのはお互いが好きという気持ち。

『大好きだよ、ニコちゃん』





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