灰色の雲が空を覆い尽くし、そこから無数の真っ白な雪が舞い降り、世界を白銀に染めた。
 無数の雪。
 真っ白な世界。
 私が今歩いている土手の濃灰色のコンクリートの地面や、河川敷に広がる生い茂った緑色の草も今では雪が積もっており、雪の絨毯が周囲に広がっていた。
 いつもより世界は静かで、美しい。
 吐く息はすぐに白く染まり、コートとマフラーを巻いて防寒対策をしてきたがむき出しの肌には容赦なく風が襲いかかり、凍えるほどひりひりと痛んできた。
 昨晩から降り続いた雪は正午を過ぎた今でも降り続け、テレビで見るような雪国に似た光景を作り出していた。
 私――青木れいかが住むこの七色ヶ丘では、こんなにも雪が積もることは珍しく、町中では少なからず戸惑った様子が見え隠れしている。
「まだまだ雪は止みそうにないね」
 隣を歩く私の幼馴染――緑川なおがポツリと呟いた。
 手編みのポンチョとマフラーを身につけている彼女は私と同じく白い息を吐いている。
 土手の上は周囲に遮蔽物がないため冷たい風にさらされてしまう状況だが、彼女は物ともしていない表情だった。
 なおは凄いわね。
 素直に感心しながら、彼女の言葉に応える。
「そうね、こんなに降るなんて思ってもいませんでした」
「私もだよ。朝は大慌ててで手袋用意したしね……あっ、れいか、見て見て!」
 するとなおが話の途中で何かを見つけたようで、嬉々とした表情を私へ向けてきた。
 なんだろうと首を捻りながら視線を向けると、なおは土手の下である河川敷を指さしていた。
 そこは真っ白な雪が一面に広がっている空間。
 美しい雪化粧が施された地面。
「ここらへんはまだ誰も来ていないみたいだよ! ほら、足跡とかまったくないよ!」
 なおは子供のように無邪気な表情を浮かべながら、言葉の途中で走り出し、雪が積もっている坂を駆け降りた。
 雪で気持ちが舞い上がるのは判るけど、少しはしゃぎすぎではないだろうか。
 ただでさえ雪で足下が不安定なのだから、せめてゆっくり降りないと危険でもある。
 私は慌てて注意の声を張り上げた。
「なお! そんなに走ったら危ないですよ!」
「へーきへーき……うわっ!?」
 笑いながら振り返ったなおは足を滑らしたのか、坂の途中で姿勢を崩した。
 刹那、背筋に寒気が走り、何か言葉を発しようとしたが、その前に彼女の体がごろごろと坂道を転がる。
 数秒の出来事に頭のほうが追いついていなかった。
 しかし、坂の下まで転がり大の字で雪に埋もれるように倒れているなおの姿を見た瞬間、肌が粟だった。
「なお!? 大丈夫!?」
 私は惨状に血相を欠き、慌てて雪が積もった坂を慎重にくだっていく。
 雪の足場は非常に悪く、途中で転びそうになってしまうがやっとのことで坂を降りると、すぐさまなおの横に膝をついて様子を伺う。
 雪に体を埋めている彼女は少し目を回していたが、額を押さえながら、「あたたた……へ、へーきだよ……」と苦笑いをしなが声を漏らした。
 とりあえず目立った外傷はないようだけど、本当に大丈夫なのかは怪しい。
 彼女は昔から無理をすることが多い。
 誰かを心配させないように少しの痛みぐらいなら我慢して隠してしまう。
 家で一番上のお姉さんとして頑張ってきていたから、それが癖になっているのかもしれない。
 誰かを心配させたくないための、我慢する癖。
 正義感の強くて、我慢強い女の子。
 弱さを見せようとはしない子。
 幼馴染の私にでさえ隠そうとしてしまう、悪い癖。
 すると額をさすっていたなおが「あっ」と何かに気づいたように声を漏らした。
 やはり怪我をしたのだろうかと心配になり話しかける。
「どうしたの、なお? どこか痛いの?」
「えっとね、こうやって雪に寝転がっているのが以外に気持ちよくてさ〜。れいかもやってみない?」
 そう言いながらなおは腕を左右に伸ばし、大の字になるように雪に体を埋めた。
 私の知っている無邪気でいつも通りのなお。
 私の心配なんて素知らぬ言動。 
 思いに気づいてくれない彼女に対して、僅かながら不満が生まれてくるのも仕方がない。
 少し語気を強くして子供のように寝転がるなおへと声を発する。
「もうっ、服が濡れてしまいますよ」
「あっ、そうだね。ごめんね」
 はにかみながら笑うなおは反省しているのか、していないのか。
 ちょっと酷かったかしら。
 冷静になると罪悪感がすぐに顔を出す。
 ううん、これもなおが風邪を引かないため。
 でも少しぐらい大丈夫かもしれない。
 様々なことを考えて彼女が体を起こすのを待つ。
 だが、なぜかいつまで経っても動こうとはしなかった。
 どうしたのだろうかと首を傾げて、改めて言葉を投げかける。
「ほら、早く起きて。風邪を引いてしまうわ」
「んー、気持ち良いからもうちょっとだけやらせて欲しいな」
 なおは寝転がったまま空を見上げている。
 どうやら動くつもりはないようだ。
 私が心配しているのに。
 でも、雪がここまで積もることは滅多にないのだし、こんなことは滅多にできないのだから許してあげても良いのでは。
 それに彼女の言う通り、少しぐらい寝転がった程度なら風邪を引く可能性は低いだろうし。
 そして何より、なおは家で弟さんたちの世話をしているから自由もあまりないと思うから、少しのわがままくらい私が大目に見ないといけない。
 なおのため。
 なおのことはよく知っているつもり。
 だけど、それは私の思いこみかしら。
 昔からなおと一緒にいる。
 幼馴染として一緒にい続けた。
 隣にいるのが当たり前と思えるぐらいに。
 なおの好きな物や嫌いな物もよく知っている。
 彼女が優しいことだって知っている。
 知っている。
 知っているはずなのに。
 はずなのに、なおの考えは判らなかった。
 なおが私をどう思っているのか。
 私がずっと傍にいて煩わしいと思わないのか。
 私は彼女の役にたっているのだろうか。
 一度考えると疑問は止まらない。
 こうやってずっと一緒にいたい。
 別れるなんて考えたくもない。
 だけど、いつかそれはやってくる。
 高校へ進学したら別々になるかもしれない。
 もしかしたらすぐにでも別々になるかもしれない。
 私は嫌。
 なおと離れたくない。
 前の留学を断った理由も、みんなと離れたくないと言ったが、一番の理由はなおと離れたくなかったから。
 ずっと離れたくないとわがままを言っても、彼女を困らせてしまうだけに違いない。
 眩しいくらいなおは暖かくて優しい。
 私にないものをたくさん持っている。
 迷ってばかりの私の手を引っ張ってくれる。
 それに比べたら私は彼女のように胸を張って言えるものを持っているのか。
 判らない。
 判らない。
 私は何を持っているのか。
 なおの周りには、彼女を慕う人がたくさんいる。
 私も所詮はその一人ではないのだろうか。
 幼馴染という言葉を理由に、ただつきまとっているだけ。
 いつか私はなおの中で忘れられてしまうのか。
 そう思うと胸が締め付けられるようだった。
 なおが傍にいるのに、気持ちが暗くなっていく。
 何をやっているの。
 陰気な空気を出していてはなおが訝しむに違いない。
 笑わないと。
 彼女にいらぬ心配をかけてはいけない。
 あんな想い、後で一人で考えれば良いんだ。
 なおを巻き込む必要はない。
 笑顔を作らないといけない。
 自分を偽って。
「れいか、なんか暗いこと考えていたでしょ?」
「え?」
 その時、なおが口を開いた。
 視線を向けると、力強く真剣な双眸が私を見つめていた。
 凛とした瞳は私の奥底を見てくるかのように鋭い。
 まるで心を読まれたかのような台詞に息を呑むと、彼女はさらに言葉を綴った。
「その反応、隠しているつもりだったでしょ? でもれいかって昔から悩むとすぐ顔に出るからね、判っちゃうよ。私で良ければ力になるけど……」
 そしてなおは唇の両端を少し上げ、微笑む。
 なおは昔から私の心の変化に、過敏に反応する。
 私はいつも通りに接しているのだけど、すぐに気づかれてしまう。
 他の人は騙せても、なぜかなおだけは難しかった。
 彼女に隠し事はできない。
 自信に満ちあふれていたその瞳と視線が重なると、私の心が揺らいでしまうような気がした。
 彼女に思いを伝えても良いのでは……?
 いや、このまま彼女に私の不安を吐き出しても良いのか。
 もし話をして彼女との関係が悪くならないだろうか。
 様々な思いが折り重なる。
「……その…………」
 何か喋らないといけないという気持ちはある。
 しかし、暗い思いで言葉が浮かび上がらず、迷いで声が出てこなかった。
 なおが心配しているのに、何も言えない。
 早くしないと彼女に嫌われるかもしれない。
 早くしないと。
 早く。
 早く。
 でもどうすれば。
 何を伝えれば良いの。
 私はどうすれば良いの。
 動揺が混乱を招き、意識がぐちゃぐちゃにかき回される。
 答えが見つからない。
 胸が苦しくなる。
 心臓が何度も高鳴る。
 苦しい。
 苦しい。
 助けて。
「……てやっ!」
「ひゃっ!?」
 頭の中が真っ白になろうとした時、突然なおが抱きついてきたので、意識が一気に醒める。
 間抜けな悲鳴を漏らしながら、私は引き寄せられるように彼女の胸へ体を預けてしまう。
「な、なお!?」
「私の元気をれいかに分けてあげるよ」
 驚き顔を上げると、なおの顔は今にもくっつきそうなほど近かった。
 彼女の吐息が私の鼻先を擽る。
 とくん、と胸が鳴った。
 眩しいほどの笑顔。
 彼女の暖かい手が私の頭に乗せられ、撫でるようにゆっくりと動いた。
 優しく何度も頭を撫でる感触が続く。
 どうも子供扱いされているような気がする。
 幼馴染なのに、なんだか嫌だった。
 そんな扱いを少しでも払拭するため、何か言わないとと思い感情のまま言葉を走らせる。
「げ、元気とはこのような方法では分けられないのでは……」
「まぁまぁ、良いじゃない。こうやっていれば暖かいしさ」
 言いながらなおは私を優しく抱擁し、顔を彼女の胸に埋めさせられてしまう。
 私の話をあまり聞き入れてくれない。
 ちょっと強引。
 それでも彼女の優しさが伝わってくる。
 落ち込んでいる私を元気づけようとしている。
 彼女の柔らかい体。
 温もり。
 鼓動。
 私の心を暖めていく感覚。
 私の内に溜めていた気持ちを溶かしていく。
「れいかはさ……」
 ぽつりとなおが声を漏らす。
 顔を上げようとする前に彼女は先に言葉を綴った。
「一人で抱え込まなくても良いんだよ。私はこれぐらいしかできないけどさ、できる限り手伝うから言える時に言ってね」
 包み込むような柔らかい声。
 なおの顔は見えないけど、恐らく笑顔なんだろう。
 今、彼女がどんな表情をしているか長年連れ添った者として想像は簡単だった。
 彼女は先ほどとは違い、私の悩みを深く聞こうとはしなかった。
 私が話してくれるのを待っているような様子。
 やはり、なおはなんでもお見通し。
 だったら、私が離れたくないという思いも判っているのだろうか。
 いや、それならそんなことを言ってこないはず。
 それならそれで良い。
 知ったら彼女は困ってしまう。
 だからなおには言えない。
 ごめんなさい。
 ごめんなさい。
 こんな酷い幼馴染なのに、彼女は私に優しく接してくれる。
 優しいなお。
 私を知ろうとしてくれる幼馴染。
 今は彼女の優しさに体を預けたかった。
「……ありがとう、なお」
 彼女の胸に顔を埋めたまま、様々な思いを込めて唇を動かす。
 とても小さな声だったけど、周囲の雪が雑音を吸収して私の声だけがはっきりと響いていた。
 声は届いているはず。
 彼女の鼓動が耳朶を打つ。
 雪が降り注ぎ、寒いはずなのに、とても暖かい。
 なおの存在が私を暖めてくれる。
 なお。
 なお。
 こんな姿を誰かに見られたらどうしよう。
 だけど、今はそんなことを考えたくなかった。
 この時間を堪能したかった。
 思いはいつかちゃんと伝えるから。
 それまで待って。
 ごめんなさい。
「……ふふ」
 ふと、抱きしめられてから約一分後、なおが急に笑い声を漏らした。
 今の雰囲気とは僅かに異なっているような弾んだ声。
 何かあったのかと疑問に思い頭を上げると、なおは頬を紅潮させながら微笑んでいた。
 率直な感想は、変な顔のなお。
 自然と小首を傾げてしまう。
「どうしたの?」
「なんだか今の状況がさ、れいかを独り占めしているみたいで嬉しくなってきたんだ」
 そう言いながら、なおは私の頭をまた撫でた。
 私を独り占め?
 なぜなおはそれで喜んでいるのか。
 よく判らない。
 上手く言葉に表せられないけど、彼女のその言葉が素直に嬉しいと思えた。
 なおに求められているようで嬉しかった。
 嬉しい。
 そんな単語が頭を埋め尽くす。
 ……ああ、私は何を考えているのか。
 これは私の思いこみ。
 なおはきっと私を励ませ、場の空気を弾ませるための言葉を言っただけなのに。
 だけど、本心じゃなかったとしても、面と向かって彼女に言われると恥ずかしい。
 炎が出てくるかと思えるほど顔が熱くなり、恥ずかしさを誤魔化す勢いで言葉を返す。
「な……何を言っているの……もう」
「照れているれいか可愛いね」
「…………むぅ」
 まだ子供扱いされている気分。
 今は何を言っても同じような対応がされるような気がする。
 もう今日は諦めるしかないのかしら。
 私だってちゃんとしているのに。
 いつもはこんな扱いしない癖に、なぜ今だけなのか。
 からかわれているように思え、不満で頬を膨らませて意思表示をはっきり表す。
 それでもなおは私の頭を撫でるのを止めなかった。
 にこにこ笑顔で私を見ていた。
 その笑顔に私も釣られて自然と顔が綻んでしまう。
 悪い空気は皆無。
 彼女との一緒の時間。
 なおはずるい。
 なんとなく私が求めることを無意識の内にやってくる。
 私が寂しい時にはこうやって傍にいてくれる。
 私を心を知っている幼馴染。
 心が繋がっている。
 本当に信頼できる相手。
 大切な、大切な幼馴染。
 貴女のお蔭で元気になれたわ。
 なお、ありがとう。
 心の中で彼女に呼びかける。
 様々な思いを混ぜた言葉。
 いつか私たちは別れるかもしれない。
 だけど、離ればなれになったとしてもなおはわざわざ会いに来てくれるような気がした。
 私の知っているなおはそんな性格だから。
 真っ直ぐな、優しい女の子。
 離ればなれになったとしても、心までは離れない。
 暗雲から降る雪はまだまだ止みそうにない。
 私たちのつけた跡が残る白銀の世界。
 なおの笑顔はその世界で色鮮やかに輝いていた。





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