☆


 ――私は今、魔界に来ています。

 魔界は私の住んでいる幻想郷とは大きく違う。
 乳白色の空には灰色の雲と巨大な翼を持つ爬虫類が漂い、黒い太陽が地上の世界に光を与える。
 建ち並ぶ建築物は煉瓦造りばかりで住民の衣服も洋式と、雰囲気が幻想郷と真逆のように思えたが、人の活気というのはどこの世界も似ているようだ。
 背後に見える高さ十メートル、幅は二十メートルほどの白塗りの石門の先には、僅かに空間が歪んでいる暗闇が広がる。
 異世界と魔界を繋ぐ門。
 私はその門から魔界へとやってきた。
 門は幻想郷の博麗神社の裏山にある洞窟と繋がっており、入って数分でここに到着していた。
 門の周囲には十字になるような配置で露店、及び屋台が並んでいるようで、少し歩いた先には宿泊施設や飲食店、貿易商、旅行会社なる物まであるようで、ひとつの町とも言えるような場所だった。
 町というだけあってか、人通りは周囲を見るだけで閉鎖的な幻想郷と比べても倍以上の密度がある。
 門からはひっきりなしに人や妖怪、龍のような生き物に引かれる馬車……馬車なんだろうか。
 とにかく様々な存在が門を潜ってこちらの世界へやってきていた。
 どうやら幻想郷だけと繋がっている訳ではなく、色々な世界と繋がっているようだ。原理は判らないけど。
 見るものすべてが真新しい。
 知らない世界。
 勝手が判らない世界はどうにも不安になる。
 門から隣にある監視所と思われる石灰色の堅苦しい雰囲気を醸し出す建物へ視線を移動させる。
 建物からは服装が統一されていないが、武器を所持している者が数名出入りを繰り返す。
 門の近くにある物々しい建物だから監視所で、武器を持っているのは門番の人だろうか。
 そしてその出入口から横に少しずれた壁沿いに、私を魔界へ誘った張本人である女性が、門番の一人と思われる女性と話を弾ませていた。
 肩まで伸び、癖のついた黄金色の髪を靡かせ、離れていてもよく見える髪と同じ色の双眸、粉雪のように白く淡い肌。
 青のワンピースに白のケープ、腰に巻く桜色のリボン、頭につけている赤いカチューシャはどこか可愛らしい。
 私より少し小柄な彼女――アリス・マーガトロイドの姿を遠めから眺める。
 私の大切な相手。
 好きな……相手。
 彼女と両思いになったはずなんだけど、心の中でも言葉に表すのは何か恥ずかしかった。
 むしろ手に触れるのも、どこか申し訳なくなり、遠慮してしまうことが多かった。
 出会って、一緒の時間を過ごして、好きだと言って、そこから何かが変わる訳ではなく、ただお茶をして、お喋りをして、どこかに一緒に出かける仲に別段変化はない。
 だけど、気持ち的に色々な距離が近づいたような気がする。
 ほんの一歩程度だけどね。
 アリスの会話は弾んでおり、いつ終わるかも判らない。
 知人との会話を邪魔するほど無粋な性格を私は持っていないので、気長に周囲へと視線を動かし、あれはなんだろうか、などの疑問を抱き続ける。
 時折吹き抜ける風は、私の頭についている細長い兎耳二本と、膝裏まで伸びた薄紫色の髪の毛を揺らす。
 今の服装は冬用の紺色のブレザー、白色のスカート、白のハイソックス、赤いネクタイを身につけ、他の世界へとやってきた割には地味な格好とも言えた。
 そもそもなぜ私がここにいるのかと言うと、単純にアリスに誘われたからである。
 人間の里で薬を売りの仕事を終え、新しい服を作りたいからアリスに私の体のサイズを図りたいと頼まれたので彼女の自宅へ向かうと、魔界へ行かないかと誘われたのだ。
 魔界はアリスが生まれ育った故郷。
 好きな相手の故郷へ一度でも行ってみたい気持ちがあったのだが、急にどうしたのかという疑問も生まれる。
 理由を訊いてみるとどうやら魔界の知り合いの方が主催するパーティーの招待状が届いたようで、それに参加するために魔界へ帰郷するらしい。
 私が誘われた理由は、説明前に彼女が『そのままの意味じゃないからね』と入念に前置きをした後、どうやら従者をひとりほど連れて行けるようで、その代わりにどうかということらしい。
『従者ではなく客人として扱って貰うから!』と半ば必死に補足されたけど。
 長期滞在ではなく数日の予定で、師匠に話したら魔界の薬草を買ってくることを条件に許可を貰い、あれよあれよと今に至る。
 アリスから借りた小さめの旅行鞄に着替えなど、必要と思う物を色々詰め込んだ。
 というか幻想郷の外なんてもう何十年ぶりなので、何を持っていっていいのか判らなかった。
 私の傍らでその焦げ茶色の旅行鞄を落ち着いた表情で持っている黒髪の人形が宙を漂っている。
 反対側にはアリスと似ているような服装をしているが、大きな赤いリボンを頭につけ、エプロンを腰に巻いている人形――こちらは名前があって、上海人形がアリスの旅行鞄を持って漂っていた。
 アリスと二人きりの旅行なんだな、と改めて実感すると気持ちが軽やかになる。
 キョロキョロと周囲を見回していると、近くの土を踏む音が響き、誰かが近づいてきた気配を感じる。
 そちらへ視線を向けると、アリスが意外に早く会話を終えたのかこちらへと向かって来ていた。
「お待たせ、鈴仙」
 アリスが私の正面で止まり、微笑んだ。
「もういいの?」
「ええ、ちょっと懐かしかっただけだから」
「知り合い?」
「そんなところ」
 彼女の知り合いということは、私の知らない頃の彼女を知っているのかな。
 羨ましいなぁ。
 アリスともっと昔に出会っていたら、彼女のことをもっとたくさん知られたはずなのに。
 欲張りな考えなのかな。
 今の彼女との関係に満足できないのかな。
 魔界はアリスの故郷。
 アリスが育った場所。
 少しでも彼女を知ることができればいいな。
 まずは会話から探りを入れてみよう。
「しかし、賑やかな場所だね」
「前は静かな場所だったんだけどね、色々な世界と繋がって発展したみたい。門番も増えて寂しくないって言っていたわ」
 可笑しそうにアリスは微笑んだ。
 監視所を横目で確認すると、先ほどアリスと話していた女性は他の門番と思われる人と楽しそうに会話している。
 さぼっているようにも見えるが。
 門番と言われると幻想郷では紅魔館の門番ぐらいしか思いつかないが、確かに一人で一日中立っているのは寂しくて辛そうだ。
 お喋りしたい気持ちもなんとなく判る。
 私にはきっと無理だろう。
 ひとりっていうのは嫌だし。
 魔界に来たのもアリスがいるからだ。
 そうでなければ、よっぽどな理由がない限り、こんな幻想郷と勝手が違う世界へは行けないし、行こうとも思わない。
 あっ、別に魔界が嫌という訳ではない。
 ただ、ひとりは寂しいということだ。
「それで、これからどこへ向かうの?」
 人の従来が激しいので、ここにいても仕方がない。
 次の行動を訪ねると、アリスはスカートのポケットから鎖が繋がっている銀色の懐中時計を取り出し、竜頭を押して蓋を開く。
「あー……竜車来るまでまだ時間はあるわね」
「竜車?」
「まぁ魔界の交通機関と思ってもらっていいわ」
「の、乗り物なの?」
「大丈夫よ、意外に揺れないし快適よ」
 そういう意味じゃないんだけど……と心の中で彼女にツッコミを入れながら、視線を門のほうへと移動させる。
 門からは八つの車輪をつけ、積載量を超過していると思えるほどの車を引っ張る四本足のは虫類が涼しい表情で歩いていた。
 猛禽類のような双眸や口からはみ出している巨大な牙や角、強靱な体。
 見ていると暴れたらどうなるかと不安になってくる。
 竜というのはああいう生き物のことなのだろう。
 幻想郷では、龍は珍しい生き物なので未だに見たことがない。
 だけど絵で見た姿とはなんか違う魔界の竜。
 外の世界の西洋の本で見た姿に似ている。
 アリスが大丈夫というなら大丈夫なのだろうけど、怖いな。
 というか竜車以外にも、普通に馬が引いている馬車の姿も確認することができるので、馬車も普通にあるのだろう。
 私たちはそもそも空を飛べるんだからそれでいいじゃない、と思ったがそれをやらないということは乗り物を使用しなければいけないほど遠いところなんだろう。
 まぁ、アリスがいるし、なんとかなるかな。
「じゃあ、予定時間までこの辺りを見て回る?」
「うん、迷子になりそうだから行く場所はアリスに任せるよ」
「ええ、前に来た時よりも賑やかだけど、なんとなく判るから任せておいて」
 微笑みながら、アリスは自信ありげに握り拳で胸を軽く叩いた。
 初めて来た地では雛鳥のように彼女に頼るしかない。
 しかし、賑やかなのはいいのだが、これだけ人口密度が多いとどうも周囲が気になって仕方がない。
 そう思い顔を横へ向けると、シワが深く腰が曲がっている老女が訝しむような瞳でこちらを見ていることに気づく。
 またか…………。
 先ほどから何度か、周りの視線が私の兎耳へと向けられるのを感じていた。
 門を往来する者、露店商の者、それを見る客の中で私のように動物の耳を生やしている姿の者は少ない。
 完全にいない訳ではないので、そこまで好奇の視線を向けられる訳ではないのだが、やはり珍しいようだ。
 幻想郷では幼子に興味津々で見られる程度で、妖怪の比率が多いためか、私の耳は差ほど気にされなかった。
 改めて認識したが、私の耳は珍しいみたい。
 変に目立つのは何か嫌。
 どこの誰かも判らない相手に見られるのは嫌。
 視線を横へ移動させると、私の耳を見ていた厳つい男性と視線が重なり、私は慌てて顔を逸らす。
 何か相手に思われただろうか。
 文句をつけられるのだろうか。
 そんな不安が溢れ出てくる。
 自然と顔が地面へ向けられていた。
 幻想郷と似ている舗装された土が向きだしの地面が見え、行き交う者の顔はおろか姿さえも見えない。
 ただ、音が大きくなったように思えた。
 誰かが、私の兎耳を見て何か言っているような気がする。
 そう思うとさらに耳に入ってくる音が大きくなったような気がした。
 特に喋り声が。
 私の耳を見て、誰かが喋っている。
 嗤っている。
 陰口かもしれない。
 聞きたくない。
 不安が止めどなく溢れ出る。
 気持ちが沈もうとした時、私の手を握られる。
 視線をあげると、アリスが先ほどの位置から一歩私に近づいた位置に立っていた。
「大丈夫、私がいるよ」
 彼女はそれだけ言うと微笑んだ。
 私の暗くなった気持ちを吹き飛ばすには、それだけで十二分だった。
 力強く、安心できるような優しい笑顔。
 握られる手から伝わる温もりは、沈んだ心を引っ張りあげてくれた。
 私を思ってくれる相手が隣にいる。
 知らない異界の地でもひとりではない。
 そう思えると、心に余裕ができた。
「うん」
 頷きながら、彼女の手を握り返す。
 離したくない手。
 耳朶を叩き続けた喧噪も、気がついたら落ち着いていた。
 苦しくなっていた胸も力が抜けたように楽になり、緊張が解ける。
 アリスも無言で手を握り返してくれた。
 ちょっと照れくさいけど、嬉しい気持ちでいっぱい。
 彼女の頬も薄らと朱色に染まっている。
 魔界に来たばかりなのに、アリスに気を使わせるなんて私はダメだな。
 せっかく彼女と旅行に来たんだし、楽しまないといけない。
 しかし、それにしてもアリスの手は暖かいなぁ。
 細くて柔らかいし、少し揉んでみると永遠亭の妖怪兎たちの耳みたいな弾力だった。
 私の指って乾燥肌で彼女の指と比べると細くもないことを考えるとなんて羨ましいんだろうか。
 羨ましい、私も彼女みたいな指にしたいな。
「れ、鈴仙……」
 ふと、アリスが声を漏らす。
 なんだろうと思って彼女の顔を見ると、視線を上下左右に世話しなく動かして挙動不審だった。
 よく判らないけどどうしたんだろうと思っていたら「くすぐったいよ……」と呟いた。
「あっ! ご、ごめん!」
 慌てて手を離して謝る。
 無言で相手の手を揉むなんて、仲のよい相手に対してもやっていいことではない。
 数秒前の私はなんて自分勝手だったんだろうか。
 アリスも私が揉んでいた手を護るように揉まれていないほうの片手で覆った。
 もしかして強く握って痛かったのかな。
 彼女の指はガラス細工のように繊細な物だから、もしかして傷がついてしまったのか。
 そんなことになったら私は!!
 とにかく謝らないといけない。
 でもなんて謝るの!?
 もし変なふうに謝って彼女を怒らせたらどうしよう。
 頭の中が真っ白になり始め、思考がまとまらなくなってきた時、アリスが慌てて声をあげた。
「じゃ、じゃあ、行きましょうか」
 護っていたように覆っていた手を離すと、アリスが頬を紅潮させながらぎこちない笑顔を作って提案してくる。
 その言葉に混乱していた意識が落ち着き、「う、うん」と頷く程度の反応を返す。
 しかし、それにより謝るタイミングを失ってしまう。
 この話はこれでおしまい。
 私たちを取り巻く空気がそう物語っているのだ。
 迷っていたらこの結果だ、最悪である。
 彼女は見ている限り怒っているように見えない。
 いや、平静を保っているだけで実は怒っているのでは。
 判らない。
 魔界に来て早々に何をやっているんだ私は。
 激しく悩み苦しみに喘いでいると彼女が「鈴仙は何か見たいのある?」と訊いてくる。
 動揺していることに気づかれては追求される可能性もあり、その理由を訊かれたら答えづらいったらありゃしない。
 謝るタイミングができるかもしれないからいいかもしれないけど、今はその空気ではないからダメ。
 悟られないように平静を保ちながら返す。
「そ、そうだね……見たいところ……」
 最初、少し声が裏返った。
 周囲を見回して挙動不審になっていた視線を動かし、緊張を少しでも解そうと努力する。
 しかし、見たいところと言われてもすぐには決められない。
 周りにある物をすべてが珍しくて、できることならじっくり見たいのだが、そんな時間も恐らくない。
 じゃあ絞るか、と言われても迷ってしまう。
 私の優柔不断な性格は本当に情けない。
「ん……?」
 ふと、私たちがいる場所から五メートルほど離れた位置に女の子が立っていることに気づく。
 人混みの隙間から見える女の子は、前を横切る者によって頻繁に視界から遮られているが、なぜか異様に存在感を放っている。
 褐色の肌を持った青い頭巾を被る黒髪の女の子。
 年は人間で言う一五歳前後で、顔つきはすらっとしている訳ではない。
 服装は白いブラウスに黄色い紐で胸元と左右に別れた青いベストを繋いでおり、同じく青色のスカートには黄色の刺繍が施され、桃色のエプロンをつけていた。
なぜか、周囲に似たような服装な通行人が多いはずなのに際立っていた。
 だけど周囲を歩いている者はその女の子に気づいていない様子で、とけ込んでいるようにも思える。
 ふと、女の子と視線が交わった時、彼女は微笑んだ。
 歯を見せながら唇を動かし、見た目相応な幼い笑顔。
 どんな意味の感情が込められているか判らない笑顔。
 そしてやっとなんだろうか、という疑問が生まれた。
「鈴仙、何か気になる物でもあった?」
「え、いや……」
 アリスに呼ばれて視線が横へ移動する。
 そしてすぐに女の子へと戻した。
 本当に一瞬、一秒に満たないことである。
 私は女の子を見失ってしまった。
 先ほど女の子がいたと思う場所に、こちらを見る者はおらず、まるで最初からいなかったようにも思えた。
 気のせい、という訳ではなさそう。
 なんだか不思議な感覚に襲われながら、訊いてきたアリスに「なんでもない」と軽く答える。
 その答えで特に追求してくる訳でもなく、アリスは「そっか」と頷き、さらに言葉を続けた。
「なら適当に歩き回ってみる?」
「アリスがいいならそれで」
 下手にどれを見るか悩むよりかは、好きに歩いて目に入った物を見ていったほうがまだいいかもしれない。
 結局見られる物なんて限られているし。
「あっ、それからこっちで話しかけられたら気をつけてね」
「え? うん、判ったけど、なんで?」
「幻想郷と違うからね、こっちの世界の常識は」
「ふーん?」
 世界も違えば常識も違うか。
 注意しておかないとなぁ。
 まぁ、アリスと一緒にいられるし、大丈夫だろう。
 彼女が一歩進み、ほんの少し遅れるように歩く。
 ふと、手に彼女の温もりの名残があった。
 先ほど、私の不注意で離してしまった細い指。
 もっと握っていたかった。
 また握るタイミングがあるだろうか。
 できればまた握りたい。
 隣を歩く彼女の手へ視線が移動する。
 思いが胸の中に溜まる。
 周囲の喧噪はいつの間にか気にならなくなっていた。




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