☆ 残雪も綺麗に消え去り、春の息吹を感じ始める。 眠っていた動物は穴蔵から這い出て、植物が土から顔を出す。 川沿いの桜並木には今年も見事な花が咲き、心地よい気温は眠気さえも誘う。 私の名前は本居小鈴。 紅色と薄紅色の二色で作られたお気に入りである市松模様の着物、若草色のスカートだけでも十二分に過ごしやすい季節。 優雅に店先で読書を楽しめば、それはもう幸せなひと時になるのは間違いないだろう。 だけど、今は仰々しい屋敷の三十畳はあるのではない和式の部屋にいる。 障子が開け放たれ、外から入り込む春の陽気。 外からはししおどしの音が定期的に響いてきて、鶯の鳴き声も聞こえてくる。 だだっ広い部屋だが、私の正面に長方形の座卓が置かれているぐらいで他には何も無い。 普段、本がところかしこに置かれている窮屈な店先にいるせいか、どうも落ち着かない。 髪を頭の上で二つに束ねている鈴のついた髪留めへと自然に手がいく。 と、座卓を挟んで向かいにいる女性が急須から湯呑みにお茶を入れる。 若草色の長着の上に黄色の羽織、赤色のスカートを履く女性。 肩まで伸びた紫色の髪で前髪は目の上で切りそろえられており、桃色の花びらの花がついた髪飾りがつけられている。 ぱっちりと見開いた目はどこか大人びた雰囲気を醸し出していたが、私とそう変わらない年齢。 体は着物に隠れて判りづらいが、指先や顔の細い線を見ていると華奢なのは判る。 稗田阿求――この仰々しい屋敷、幻想郷一の名家である稗田家の当主であり、私の数少ない友人だ。 お互い歳が近く、家同士の利害が一致しているため、昔からの関係――所謂幼馴染で、なんとなく感覚が合うので仲良くしている。 今もこうやって阿求の家にいるのも、家の仕事のついでが三割程度で、後はただ遊びに来たのが目的でもある。 「はい、小鈴」 私の名前を呼びながら、阿求は湯呑みを差し出す。 「ありがとう、阿求」 礼を言いながら湯呑みを持つが、やはり淹れたては熱くてすぐには口をつけられない。 息を吹きかけながら冷ましていると、阿求も同じように息を吹きかけているが私と違ってお淑やかで大人びている。 さすがというか、なんというか。 挙動の一つ一つが丁寧。 私も見習ったほうがいいのかな。 そう思っていると彼女は湯呑みに口を付ける。 静寂が満ちる部屋に僅かにお茶を啜る音。 お上品だこと。 眺めていると彼女は「あら」と声を漏らす。 「美味しい緑茶ね、高かったんじゃないの?」 少し驚いたような口調で阿求は私と視線を交わせた。 「貰い物だから判らないけど、そうじゃないのかな?」 やっと冷めてきた湯呑みに口をつける。 そこまで舌が肥えている訳ではないので、お茶の味の違いなんて判らないが、阿求が言うのだからいい茶葉なのだろう。 なんとなく高そうな気もしてきた。 ずずずっ、お上品とはほど遠い音を出しながら、緑茶の味を楽しむ。 阿求は「ふーん、羽振りがいい人ね」と特に気にする様子を見せずに再度啜る。 「いつも面白い本を見せてくれるお礼にだって」 この茶葉をくれた人は『普段の礼じゃ』と喋り方が少し古くさが、そう言って今飲んでいる茶葉をくれた。 やはり私の“本”はそれだけの価値があるって評価してくれているのね。 いい人だ。 「面白い本ねぇ。私の知らないのでも入荷したの?」 阿求はそう言うとお茶を啜る。 「ううん、妖魔本よ」 「ぶふッッッ!!」 答えた瞬間、阿求が顔を横に向けて口に含んでいたお茶を吹き出した。 まぁなんとなく判っていた反応。 彼女が驚くのも無理は無い。 妖魔本とは簡単に言ってしまうと妖怪が書いた本。 大半は人語では読めない文字で書かれており、中には妖怪そのものが封印されているかもしれない物もある危険な書物。 そんな妖魔本を集めるのが私の趣味。 私の里で一番の妖魔本蒐集家であり、幻想郷の内外の様々な本を所持している。 それを知っているのは目の前の阿求はもちろん、一部の人間だけである。 そんな物を集めているなんて知られたら里での立場が危うくなってしまうしね。 まぁ、危険な物を集めているという感覚は何かゾクゾクして癖になりそうで止められない。 とにかく危険極まり無い存在の物を他人に見せていると言えば、阿求の反応は当然だった。 勘違いする前に補足しておかないと。 だが、そう思った時には遅かった。 阿求が大きく咳き込むと、座卓へ湯呑みを乱暴に置いて声を荒げる。 「アンタ、一般人に何見せているのよ!? 噂になったらどうするの!?」 激しい剣幕でまくし立てる阿求からは鬼気迫る物を感じる。 普段は落ち着いていて叫ぶことは滅多に無い彼女が叫ぶと迫力がある。 まさかこんなに激しく反応されるとは思っていなかったので圧されてしまう。 「だ、大丈夫だよ……その人、言いふらすような人じゃないし、何より以前困った時は相談にも乗ってくれるいい人なんだよ?」 あまり刺激しないように笑顔を作って言葉を並べるが、彼女の表情は一向によくならない。 睨みつけられながら、笑顔というより苦笑いしか浮かべられない凍り付いた空気。 この家の使用人も何事かと縁側から様子を伺っているのが目に入った。 妖魔本の存在を知っているのは阿求だけで、この家の他の者は知らないはずである。 なので今の言葉を聞かれていないことを願うが、恐らく距離があるので大丈夫だろう。 それより阿求がいつ“妖魔本”という言葉を発するか判ったものじゃないので冷や冷やする。 だが、さすがに勢いで叫ぶほど冷静さを欠いている訳ではないようで、彼女は使用人たちがいることに気づいて、浮かしていた腰を下ろして、こほんと一回咳払いをした。 それを合図に、使用人たちはそそくさと逃げるように自分たちの仕事へ戻っていく。 そして静寂。 その中で阿求が睨みつけてくる。 「妖魔本なんて世間一般から見れば妖怪と同じような物なのよ。妖怪と関わったら不幸になってロクな目に合わないわよ」 「私や阿求なんて妖魔本に関わっているじゃない」 「私はいいのよ」 「な、なんでよ!?」 「私って妖怪の賢者様や閻魔様と知り合いだから、そう言うことには最低限護ってくれるの」 「はいはい、凄いですねー」 「ちょっと信じていないわね!?」 そこまで誇張されて言われても信じられない。 ある程度妖怪と知り合いの可能性も考えられるが、閻魔様とか賢者様とか本当にいるか怪しい。 これ以上ツッコミを入れても話が拗れるから、適当に流すのが一番。 不機嫌な雰囲気が伝わってくる。 ダメダメ、反応したら絶対話の風呂敷を広げられる。 すると、彼女がため息を吐いた。 「まったく……それで、その口振りから察するに、その人って私の知らない人かしら? 誰?」 「えっと…………」 答えようとしたが、答えられない。 なんたって私はその人の名前を知らないのだ。 妖艶でそこにいるようでいないような雰囲気。 男性のような服装をしているけど声質や仕草、何より整った顔は女性以外の何者でもない。 私の相談に乗ってくれる面倒見がよく、表情も豊か。 あんな女性になりたいと思える方。 見た目はいくらでも説明できる。 ただ、名前だけは知らない。 確か知り合いの巫女が『マミゾウ』と人名を出していたが、どうも男っぽいので恐らく違う。 あの人はもっとこう美しい名前に違いない。 だったら訊けばいいじゃないと言われそうだが、そんなことができるならとっくの昔にやっている。 一番の原因は、本人に訊くタイミングが無いのだ。 最初が店員とお客さんの立場だったせいで、名前も訊かずいつの間にかずるずると関係を続けていたらこんな現状である。 今更名前を訊くとか失礼過ぎて勇気がでない。 相手に嫌われるよりかは、当たり障りの無いほうを選ぶ。 「まさか、名前も知らない相手なの?」 即座に説明が出来ないことに気付いたのか、呆れたような声色で阿求が訊いてくる。 仕方ない反応なので、何も言い返せず視線を床に向けて口を紡いでしまう。 「……あまり知らない人に肩入れすると、後で酷い目に遭うわよ」 「だから知らない人じゃないんだってば」 「名前は知らないじゃない」 「うぐ……」 言い返したが、言い負かされる。 本当はもっと仲良くなりたいけど、最低限名前は知っておかないといけないよね。 だけど怖いな、変に近づいて引かれるのも。 私の中の秤が左右に揺れ、決めかねる。 「ねぇ阿求、その人にどうすればお近づきになれると思う?」 答えが出ずに、友人へと訊くと彼女は困ったように眉を八の字にした。 「それを私に訊く?」 「だって、こんな相談が出来る友人は阿求ぐらいしかいないし……」 そもそも、あの人のことを真面目に話しているのは、今のところ阿求だけである。 無茶な問いかけとは理解しているが、彼女なら万が一にでも答えを導き出してくれるかもしれない。 私より頭がいいし、博識で、大人びているし。 しかし、彼女は眉を平らにしながらお茶を啜った。 「顔も名前も知らない相手を貴女の印象から想像して助言とか無理よ」 「その無理を曲げてなんとか!」 「当たって砕けろよ」 「砕けちゃダメでしょ!?」 「美味しいお茶ね〜……」 「ちょっと!!」 強く抗議したが、阿求は眉一つ動かさずにお茶を啜ると視線は縁側へと向けて、どこか遠くを見つめた。 完全に無視されている。 ええ、判っていたわよ、こんな反応。 元々無理だとは予想できていたので、これ以上彼女へ突っかかることはせず、座卓に突っ伏す。 本当にどうしたものか。 考えるだけでも頭が痛くなってくる。 もう運否天賦のほうがいいんじゃないだろうかと諦め気味。 「そう言えば小鈴」 少し間を置いてから阿求が話題を切り替えてきた。 突っ伏した状態で頭だけを動かして彼女を見る。 「前に頼んでいた本は見つかった?」 そう言われて一瞬考える。 そして「ああ」となんのことか思い出した。 「店にあるはずなんだけど見つからなかったんだよね。ごめんね」 私の家は幻想郷で外の世界から流れ着いた本の貸出を生業にしている“鈴奈庵”という貸本屋である。 阿求、というより稗田家はお得意様で鈴奈庵の本よく資料として借り、作られた本の印刷、及び製本を行っているのだ。 そして阿求の言う本というのは、今度新たに作る本の資料にということで彼女個人が私にお願いしていた物である。 稗田家では無く彼女個人なので、そこまで優先度が高くないのだろうと思ったが、友人の頼みなので店番の合間に探していたのだが、見つからないのである。 すぐに見つかると高をくくっていたので、これは予想外で内心焦っていた。 阿求は私の言葉を聞くと頭を左右に振った。 「いいえ、すぐに見たいって言う訳でもないから、大丈夫よ」 その言葉と裏腹に少し残念そうな表情。 ああ、悪いことをしてしまった。 友人の期待に応えられなかったような気分になり、気が滅入ってしまう。 「ごめんね、まだ探しているからもしかしたら明日にでも見つかるかも」 そうは言ったものの、目処なんて立っていない。 だが言ってしまった手前、すぐに訂正したら阿求が不信感を抱いてしまうかもしれない。 ああ、私のバカ、もう少し落ち着かないと。 「じゃあ、明日、私も手伝いに行くわ」 と阿求が、ぽんっ、と手を合わせ、提案してきた。 予想外の言葉に「え? なんで?」と声を漏らす。 「ちょっと息抜きもしたいから、外へ出る理由付けよ」 彼女は頬杖をつきながら、歳相応の子供っぽい笑顔を浮かべる。 理由付けなんているのだろうか、と稗田家当主様を見つめるがどうも私の家に来る気が満々のようだ。 どうしよう、下手に断る訳にもいかないし。 それに阿求なら私が気づいていない場所を気づいてくれるかもしれないし、いいかもしれない。 早く終わることに越したことはないのだが、華奢な彼女にそんなことを任しても大丈夫だろうか。 やはり断るか、と思ったが彼女の目は私が頷くのを待っているかのように見つめてきた。 断れない。 断ったら彼女ががっかりするのが目に見えていた。 友達だし、あまりそういう表情はさせたくなかった。 「んー、じゃあ、お願い……?」 「ええ、任せて」 空気に耐えられず、許可してしまう。 この判断、間違っていないわよね……? 「まぁ、私が一回探したから見つかる訳無いけど」 「それはアンタの探し方が悪いだけよ」 「そんなはずは無いんだけどなぁ」 自信が持てないまま、春の陽気が漂う屋敷の時は過ぎる。 鶯の鳴き声が再び鼓膜を揺らす。 ☆ と許可してしまったものの……体が強いとは言えない阿求に手伝わせるのも忍びない。 私は阿求の家から出てすぐ鈴奈庵に戻り、目的の本の探索を再開する。 今日中に見つけて明日は阿求とお喋り中心にしよう。 そう思いながら管理表に記載されている棚を調べても、何度探しても目的の本は無い。 鈴奈庵では扱っている本は外の世界から流れ着いた一品物しかない。 老舗で顧客もそれなりにいるお陰で、今も安定した経営を続けられている。 だけど、昔からあるせいで本の種類は現在とんでもない数になっている。 店先に収まらない本やそもそも需要が限りなく少ない本は別の場所で保管しており、私はおろかお父さんさえどんな本があるのか把握していないのだ。 だから一冊一冊に管理番号が振られているのだけど、今のように管理番号の場所に本が無いと探すのも一苦労である。 本を元の場所へ戻すのは私とお父さんだけ。 なのでそう言ったことが無いように細心の注意を払っていたのだが、結果がこれである。 別で用意している貸出管理表には店内にある記載だったので鈴奈庵のどこかにあるのは間違い無い。 恐らく別の棚に入ってしまったのだろう。 いや、紛失とかだったら私が怒られる。 その本を戻した者の項目に私の名前が書いてあるのだから、私が怒られてしまう。 お願いだからあって欲しい。 希望的観測かな。 お願いします。 「…………?」 と、妙な気配を感じる。 周囲を見回すが誰かいるような気配は無い。 ではなんだろうか。 視線を上げると、本棚の最上段にある一冊の本が目に入る。 茶色く日焼けしたようにも見える百ページ程度の厚さで、背表紙には題名が記載されていない。 無名本なんて店先に置いてあっただろうか。 外の世界の本は極端に薄い本以外は大半が背表紙に題名が書かれているはずなのだが。 周囲にとけ込みそうな本。 だけど一度見つけてしまうと気になって仕方がない。 そう思うと同時に近くに置いてあった椅子をその本の前へと移動させる。 本当は梯子を持って来たほうが安全なのだが、目を離したら消えていそうな雰囲気を感じて、すぐに行動へ移した。 靴を脱いで椅子へ乗るが、腕を伸ばしても届かない。 もうちょっと。 本棚に片手をつきながら、つま先立ちをして腕を伸ばす。 「う……う〜!!」 精一杯伸びて、声を漏らす。 歯を食いしばり指先やつま先がプルプルと震える。 もう……ちょっと……。 「やったっ――きゃッ!?」 指先が本に当たり、背表紙を掴んだ瞬間、緊張の糸が切れる。 背伸びをして椅子の前側に重心が移動しており、捕まえると同時にその脚が滑ったのだ。 見なくてもそうなったのは判る。 視界がガクッと落ちたのだから。 背筋に冷たい感覚。 反射的に全身が強ばり、瞼を閉じる。 真っ暗な世界と奇妙な浮遊感。 次に来るであろう床にぶつかる衝撃へ備えた。 落ちる!! 「おっと」 その声が響いた瞬間、ガクッと落ちる体が止まる。 同時にいくつかの本がバサバサと床に落ちる音。 地面にぶつかったにしては早すぎるし、何よりぶつかった時の痛みなどまったくない。というか浮遊感があった。 どうなったのだろうか。 「大丈夫かの?」 疑問を思い浮かべていると、真っ暗な世界で凛とした声が響く。 聞き覚えのある声に混乱していた意識が落ち着く。 恐る恐る瞼を上げると、眼下には本棚から落ちた本が散らばった床、今まで私が立っていた椅子が横たわっていた。 そして私はと言うと、お腹に誰かの腕があってそれを軸にして、くの字に姿勢で宙に浮いていた。 腕の主へ視線を向けると、丸眼鏡の奥に見える琥珀色に輝く双眸と視線が重なる。 鼠色の長着の上に若草色の羽織を身に纏い、紺色の袴。端から見ると服装は男性のように思えるが、焦げ茶色の髪を腰辺りまで伸ばし、顔の線は細く、整った顔立ちはどう見ても女性。 妖艶な雰囲気を醸し出す女性は、阿求に話した名前も知らない憧れの人本人である。 どうやら落ちた私を助けてくれたようだ。 がっちりと片腕で私が落ちないように。 って、え? 片腕? 疑問に思って自分の腹部付近を確認するが、どう見てもこの人は片腕で私を支えている。 しかも震えること無くしっかりと。 私は確かに華奢で軽いほうだと思っているが、それでも片腕というのは……この人は実は凄い力持ち? って、いつまでもこんな格好ではこの人に迷惑じゃないの! 「す、すみません!!」 慌てて謝ると、眼鏡の人は膝を折って私の脚を静かに床へつけた。 足の裏に地面の感覚が伝わると同時に、すぐ姿勢を正して向き直る。 迷惑をかけてしまい謝ろうと唇を動かそうとした時、眼鏡の人が言葉を被せるように微笑む。 「ものぐさって怪我をしては意味がないぞ」 「は、はい……すみません……」 叱られているというよりかは、子供をあやす程度の簡単なお小言。 恥ずかしい。 気になる相手の前での失敗である。 気持ちが滅入る。 後悔もしてしまう。 なんてところを見られてしまったのだろうか。 椅子ではなく梯子を使えばこんなことにはならなかった。 楽と手間の二つを並べて、楽を取ってしまった結果である。 さらに言えば、この人がいなければ大怪我していたかもしれないので、反省するしかない。 片腕で私を助けてくれた。 瞼を上げた時に見えたこの人はかっこよかったな。 女性だけど惚れてしまいそう。 逆に考えると、この人に触れてもらえたのでこれはこれでよかっただろうか。 いやいや、何を考えているんだ私は。 一歩間違えれば大怪我と先ほど思っていただろに。 もう色々なことが起きすぎて頭が混乱しているのか。 様々な思考が巡る。 すると眼鏡の人は言葉を静かに発した。 「それでは本を探させてもらうが、いいかの?」 「あっ、はい、私はこの本を片付けるので何かあったら声をかけてください」 「手伝おうかの?」 「いえ、これぐらいなら大丈夫です」 頭の中がこんがらがっていたのに、その問いかけに対して反射的に言葉が出た。 軽くお辞儀をすると眼鏡の人は「そうか」と踵を返して、本を探し始めた。 背筋もしっかり伸びており、歩く姿勢も美しい。 阿求とは違う大人びた雰囲気と女性らしさを持つ方。 見ているだけでも心が高まる。 ふと、阿求に名前を知らないことを追求されたことを思い出す。 会話が切れてしまったので、今訊くような時では無いように思える。 ここは心当たりのある名前を呼んで反応を確かめるべきだろうか。 と言っても私が知っているのは『マミゾウ』という名前だけで、それでもし違った場合は目も当てられないので踏み出せない。 きっと『マミゾウ』という名前は別人なのだろう。 だってあまりそんな名前の雰囲気を感じないのだから。そうに違いない。 本名不詳の眼鏡の人の後ろ姿を見つめていると、本棚の陰にその姿が消える。 それと同時に思考が落ち着いた。 考えても仕方ないか、と今は周囲に転がっている物をどうにかしないといけない。 そう思って視線を床に向けると、本棚から落ちて散らばっている本が十冊ほどあった。 意外に落ちたわね、と思っていると先ほど見つけた茶色く日焼けした背表紙の本が視界に映る。 そうだった、私はこれを取ろうとしていたんだ。 主目的の本を見つけそれを手に取る。 「ん?」 持った瞬間、奇妙な感覚が指先を伝う。 普通の本とは違う感覚。 私には判る。 これは妖魔本である。 僅かに漏れでている妖気が背筋をゾクゾクと撫でる。 だが、同時に疑問も思い浮かんだ。 こんな本、あったっけ? 自称幻想郷一の妖魔本蒐集家でもある私は、持っている妖魔本を全て記憶していると自負してもいい。 それなのに手に取ったこの本は記憶に無いのだ。 見たことの無い本。 紛れ込んだのか、それとも気づかなかったのか。 妖魔本なんて元々妖力の塊のような存在である。 普通じゃ考えられない方法で紛れ込んでも不思議ではない。 蒐集物が増えて喜ぶべきか、それとも警戒すべきか。 そう言えば阿求は普段から妖魔本の扱いには気を付けるように口を酸っぱく言われている。 でも触れなければ気づかないほど弱い存在なのだから、そこまで危惧する必要もないか。 それに私の持っている妖魔本ではもっと危ないと思えるのもたくさんあるしね。 よし、これでまた一冊、私の本が増えた。 そう考えると喜ばしい事態かもしれない。 前向きに物事を考えながら、試しに妖魔本の表紙をめくってみる。 すると中は予想に反して人語で文字が書かれていた。 『アナタの願いを叶えます』 と短く記載されており、他のページにはいっさい文字や絵すら無い。 それだけならイタズラ程度の紙束で終わるのだが、やはり妖魔本。 何かがあることは間違いない。 本当に叶えてくれるかは半信半疑だが、冒険心をくすぐられる。 周囲を見回し、眼鏡の人がいないことを確認する。 「願い……じゃあ、阿求に頼まれていた本が見つかりますように」 本棚のせいで見えない可能性を考慮して、小声で口に出しながら手を合わせる。 訊かれてすぐに思いついた願いはそんな程度。 最悪叶わなくても頑張って探せば見つかるはずだから、この程度の願いなら何かあっても困らないだろう。 本当に見つかるのかな……はは。 見つかるといいなぁ。 軽い気持ち。 「ッ!?」 願いを伝えた刹那、妖魔本の文字が震え、虫のようにページの上を這いだした。 驚きに背筋が凍り、言葉を失い、目を見開く。 不気味だが放り出すことができない。 まるで縛られたかのように身動きができず、その文字たちの動きを見つめるしかできない。 文字の形が崩れ、黒い虫が意思を持ったように動き、増えて別の文字を作りだしていく。 もしかして、私は恐ろしい物に手を出してしまったのだろうか。 急に身の危険を覚え、後悔も今更だが出てくる。 そして蠢く文字たちは一斉に止まった。 新たに作り出された文字。 恐る恐る目を通す。 『承知致しました。契約内容の確認のため、就寝時に本を枕元に置いて頂けますでしょうか』 …………あれ? やけに丁寧で事務的な文章。 身構えていた分、その文章に呆気を取られる。 何、これ? そう口に出てしまいそうなほど。 確かに想像はつかなかったが、恐ろしくは無い。 その後、いくら待っても本に変化は無かった。 伝えることを伝えたら、あとは相手の行動待ちと言った雰囲気。 契約内容って何? 就寝時って何? 書かれた文字に対してただ疑問を思い浮かべる。 訳が判らない状況に次の行動を決められない。 無視をしたほうがいいだろうか。 しかし、相手は妖魔本。 機嫌を損ねたら危害を加えられる可能性もあるので、それはかなり危険な行動のように思える。 あと、日常と違うことに頭を突っ込むことに少しワクワクするところもある。 だからと言って素直に従うのも、それはそれで危険に思えてきたので、結果八方塞がりのようにも思える。 だけど、丁寧な文章のせいかは判らないが、恐怖感は薄れていた。 個人的にはもっと深入りしてみたかったが、心の片隅に万が一という言葉がある。 どうするか、と腕を組み眉間にシワを作る。 「ちょっといいか?」 「あっ、は、はい! どうしましたか!?」 眼鏡の人に呼ばれ、普段の癖で反射的に対応する。 そのせいで今考えていたことが頭の中から吹き飛ぶ。 妖魔本を背中に隠しながら振り返ると、あの人が不思議そうに私を見ていた。 「どうかしたのか?」 眼鏡の人は訝しむような表情をしている。 ってそうだ、とあることに気付く。 この妖魔本のことをこの人に相談してみるか? いや、まだ何か起きた訳でもないし、何より危ない物とかだったら回収されてしまう可能性もある。 私の蒐集家魂が危険信号を飛ばしている。 それにどういう本なのか判明してからでも遅くはないだろう。 「なんでもないですよ。それよりどうかしましたか?」 営業用の笑顔を浮かべながら対応する。 やはり眼鏡の人はまだ訝しんでいる様子。 持っている妖魔本をもっと調べたいが、この人が目の前にいるせいで今は下手な動きができない。 何より妖魔本のほうからの動きはまったく無いので、どうしようもない。 ひとまずは書いてある通りに今晩、というところだろうか。 手に持つ妖魔本からは相変わらず奇妙な気配。 |
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